神に栄光、地に平和−クリスマスによせて−
星野 正道神父
クリスマスこそ平和の時?
今年は夏の暑さも強烈だと思ったら、木枯らしの訪れも
私たちの思いを超えて早いみたいです。
昨年のニューヨークでの同時多発テロ以来、最近の北朝鮮の拉致事件に至るまで、
私たちの思いを超えた出来事の連続を大自然までもが感じ取っているようにも感じられます。
こうして早くも私たちの地球は今年もまたクリスマスを迎えようとしています。

ルカ福音書はイエスの誕生した夜、天使たちが

         「神に栄光、地に平和」

と歌ったとしるしています(2・14)。
聖歌の流れる静かなレストランでクリスマスデートの二人や、
気のあった仲間同士でのバンケットで盛り上がっている若者たちの姿からは、
クリスマスこそ最高の平和の時と思いたくなります。
民族紛争と自滅テロに明け暮れている世界のことはそっと脇に置いて、

「地に平和」
を無理矢理にも演出しなくてはいけない日がクリスマスなのでしょうか。

最初のクリスマス
イエスの両親となるヨセフとマリアは住民登録のために直線距離で約120キロの山道を歩いて
旅しなければなりませんでした。
「ユダヤの地を占領していたローマ皇帝がこの地からどれくらい税金を取れるか調べてみよう」
との思いつきから行われた人口調査でした。
若い夫婦と胎内のイエスは流産の危険を冒してもただ黙々と為政者のアイディアに従うしか
ありませんでした。

羊飼いが登場します。羊の姿とそれとたわむれる彼らの姿は
牧場の風景をさらに牧歌的にします。
しかし羊飼いたちは昼間も働いた上に人が皆、暖かい部屋で眠っているときに
野宿をしながら夜中まで働かなければならない人々です。
寒空のもとにあって家庭に帰ることも十分に寝ることも奪われた人々でした。
それでいて週に一度の安息日を守らない人、神のおきてを大切にしない人として
宗教的エリートからは罪人扱いにされている人々でもあったのです。
ここにも平和はありませんでした。

では生まれてきた神の子イエスには平和があったのでしょうか。
聖書はイエスの出産の時、宿屋には部屋が無かったと告げています。
やむなくマリアは、動物たちが餌を食べる飼い葉桶の中にイエスを寝かしたとあります。
神の御子は飼い葉桶の中に生まれたのです。
「地に平和」はなかったけれど…
クリスマスの夜、神の御子とその誕生に関わった人々は
明らかに人間としてあるべき状態になかったと言えるのではないでしょうか。
人間として大切なもの、自由とか成長とか生活の確立に必要なものにかけている状況に
生きる人々の姿がそこにあります。
「地に平和」はありませんでした。
でも皆、心を一つにして完全な裸で生まれて来た一人の赤ちゃんを見つめていました。
そしてこの赤ちゃんの真の父である神が、この独り子と全く同じように
自分たちを見つめてくれていることを信じました。
身重でありながら黙って旅をしなければならない世界のまん中で、
夜通し羊の群れの番をしてゆっくり眠ることも許されない凍える寒空の下で、
生まれて来た神の子が人間の世界の中に居場所がない小さな命として
飼い葉桶の中に身を横たえたとしても、最初のクリスマスの人々は、
自分はこのまま神に愛され受け入れられていることを確信し始めていました。
あなたは「神の栄光」
今年のクリスマスにもおそらく「地に平和」は完全には実現しないでしょう。
それは、世界の政治的状況においても私たち一人ひとりのパーソナルなところでも
そうでしょう。
でも、それにも関わらず、
「地に平和」はやってくるのです。
引き裂かれ、傷ついた私たちの状況の中であなたは大切な存在なのです。
自分すら受け入れられないほどに状況は混乱していても、
あなたは
「神の栄光」なのです。
なぜなら私たちは皆、あのイエスが命としてこの世の生を出発したように、
生き生かされていると言うところからもう一度出発するように、神から望まれていますから。
ここから出発するとき、クリスマスは確実に
        「神に栄光、地に平和」
の小さな実現の時になるでしょう。
(本学教授・司祭)