シャルトル
聖パウロ修道女会

揺籃の家
共同創立者
シャルトルへ
海外宣教
会の精神
修道服の変遷

» サイトマップ・参考文献
   シャルトル聖パウロ修道女会 (4)
会の発展と海外宣教

サン・モーリス時代

創立の日の当初から清貧と勤労のきびしさの中に育ってきた聖パウロ修道女会のスールにとって、
働くことは聖なる会則によって義務の一つに数えられていた。
そして会の事業運営の資金と自分たちの生活費とをまかなうために、聖パウロの模範と教えに従って働いた。
シャルトルに定住したスールたちも、他の地区で愛の奉仕にいそしむ者たちも、
ともに貧しく、忙しい勤労の生活に明け暮れていた。

1727年、ギアナに宣教女を派遣することを承諾した時には、フランス国内の15か所に修院を所有し、
付設した事業の運営にあたっていた。こうした、国内や海外への進出だけではなく、
さらに1733年には、ゲネ司教の招きによってサン・ボン・ドゥ・トミエールに、
34年にはストラスブルグの領主司教ロアン枢機卿の依頼を受けて、かの地へもスールたちを派遣した。

当時、フランス国内では、修道生活への召命に応じるものが続出したので、
増加し拡大されて行く諸施設からの求めをたやすく満たすことができた。
スールたちは、病院や学校の経営に、病家の訪問に、あるいは貧民救済の第一線に立って
「すべての人に対してすべてとなる」の精神を生き抜き続けた。


最初の海外宣教地 - ギアナ

1727年は、“異邦人の大使徒聖パウロ” の名をいただく聖パウロ修道女会のスールたちにとって、
まことに記念すべき年であった。
3月16日、時の海相モールパからシャルトルのドゥ・メランヴィル司教を通して、
時の総長メール・アンヌ・マリ・デランドルのもとに次の要請が伝えられた。
南アメリカにある仏領ギアナのカイエンヌに赴いて病院を管理してほしい。そうすれば、
その地の子どもたちを教育する許可を与えようとのことであった。

病人たちの世話と子どもたちの教育のために、海を遠く隔てたカイエンヌの地へ赴く・・・
これこそが、聖パウロ会を特長づける海外宣教の始まりであった。

メール・アンヌ・マリ・デランドルは総集会の会場でこの件を公表した。並みいるスールたちは、海をへだてた遠い未開の地、風土の極端に悪い「カイエンヌ」の名を耳にして、一瞬とまどった気配を示した。
しかし、まもなく “ すべての人に対してすべてとなった” 聖パウロの生ける模範と、みずからの神聖な高い使命への愛に勇気づけられて、この求めに応ずる旨を知らせる手が多く掲げられた。

メール・アンヌ・マリ・デランドルは、労苦の多い使徒職にたずさわるスールを選定するために、深い祈りと熟考を重ねた末、大黙想を終えた全会員の前で、4人のスールを指名した。
一行は1727年5月15日乗船し、約4か月の船旅を続けて9月10日カイエンヌに到着した。


ドロマデル号に乗り、ギアナへ

この日から、スールたちの身に余る激務の日々が沈黙のなかに堆積されていった。
しかし、革命のいけにえとなった聖パウロ修道女会本部は、その間の貴重な記録を失ってしまったので、18世紀のギアナにおけるスールたちの活躍をくわしく知ることができない。

4人のスールの名を記した記念碑

フランス領ギアナ(Guyane française)

南アメリカ北東部に位置するフランスの海外県ならびに海外地域圏。西にスリナム、南と東をブラジルと接し、北は大西洋に面する。面積は北海道とほぼ等しい。県都はカイエンヌ。

1604年にフランス王アンリ4世の命でギアナに港が建設された。その後、ギアナに少しずつフランスから入植者が入るようになり、1638年にカイエンヌの町を設立し、
1664年から本格的な定住が始まった。
入植は続いたが風土病で多くの死者を出した。

18世紀末に革命直後のフランス立法府はギアナでの流刑地の建設に着手した。19世紀から20世紀半ばまでに政治犯を中心に囚人がギアナに送られ「呪われた土地」あるいは「緑の地獄」などと呼ばれていた。
とくに沖合いにある流刑島の「デビルズ島」 Iles du Diable は、その名のとおり、「悪魔の島」として悪名高い。

デビルズ島を望む

母国フランスに革命のあらしが荒れ狂い、国内の聖パウロ修道女会の修院が閉鎖され、会員が離散投獄されていた時に、ギアナのスールたちは、新しい活動の分野を与えられてかえって愛の奉仕にはげむ機会に恵まれた。
それは革命政府が非宣誓聖職者および新政府に反対する者をこの地へ流刑し、その世話をスールたちに託したからであった。

行政上の変化や革命派の官吏の圧迫があったにもかかわらず、病院の各室には元のままにキリストのみ旗である十字架像がかかげられ、スールたちも、小さな礼拝堂を構えてミサ聖祭にもあずかっていた。

1795年4月1日、流刑囚を乗せた第1船が到着し、
1797年、98年と多くの聖職者や政治家、作家らが病気とともに運ばれてきた。
フランスから追放されて、死魔の襲うこの地に流された人びとに対して、スールたちがどんなにあたたかいキリスト教的愛徳の活けるわざを実践し続けたかは、ボールガール M.Beauregard 師の日記の一節によっても知ることができる。
師はリュソンの司教代理であったが、他の司祭らとひとしく「聖職者公民憲章」による忠誠宣誓書に署名しなかったので、配流の憂き目にあったひとりであった。
愛する母国ではもはや見ることも、目にすることもできなかったものを、遠国のこの地ではからずも見いだした時、師は深い感激と喜びにうちふるえながら、その感動をそのまま書き記したのであった。

ボールガール M.Beauregard 師の日記より

私たちが衰弱しきった体で流たくのこの地に到着した時、「この施設はだれが管理しているのか」と、多分、黒人の女たちに違いなかろうと考えながら尋ねた。
すると流刑者の一人がこう答えた。「とんでもありません。ここで奉仕していらっしゃる方は天使なのです。もうすぐ尊敬すべきスールたちがいらっしゃるのをご覧になるでしょうし、この方がたの愛徳がすべてに行きわたっている事実もお認めになりましょう。」

このことばは、私に言いしれぬ喜びを与えた。そして、私はこうつぶやいた。「もし修道女がこの家に居るのだったら、神がこの遠国でキリスト教徒を守られたからに相違ない。」と・・・

やがて、ひとりの修道女が姿を見せた。
彼女は私どもにあいさつをし、疲れ果てた身を投げて横たわっている私たちのベッドのそばを通りながら、寝まきや、下着や、頭きんを置いて、やさしくこう声をかけた。
「皆さん、着物を取り替えて汚れたものを出してください。洗ってきれいにしてあげましょう。
そしてゆっくりお休みください。あなた方には休息がとても必要ですから。」
そしてこのスールは静かに引きさがった。看護人たちは、私どもの脱ぎすてた、しらみや寄生虫のたまり場のような洋服や下着類を拾い集め、私たちはベッドの中にはいり込んだ。
するとまもなく、スールたちが野菜や卵、おいしいぶどう酒、新鮮な水や真っ白いパンを運んできてくれた。「偉大な奉仕はことば少なに」・・・実にその通りであった。
続いて修院長が見え、母のような愛撫と真心のこもったことばで私たちにあいさつをした。
・・・何と今宵はなごやかで、安らかな夕べだったことだろう。

長い旅路の果ての、しかも流たくの地で、こうした休息と気も晴ればれとする愛徳のわざを見いだし得たことを、私は心から神に感謝した。その夜は、ただの一回も目覚めず、安心してぐっすり眠った。
スールたちが今まで決して欠かしたことのない夕べの祈りも、翌朝「こんなにおとなしい病人は本当に珍らしゅうございました。」と私たちに話してくれたひとりのスールが、一晩中病室をみまわってくれたことも知らずに熟睡した。

夜が明けて東の空がしののめの光に輝きそめるころ、なつかしい鐘の音がさわやかな朝の空気を震わせて鳴り響いた。5時半、私たちは起き上がった。
私が最初にしたのは、神に感謝を捧げることであった。真心から私はそれを行った・・・。
へやの奥まった所に、白いローソクと白布をもって飾られた祭壇と、その上の大きな十字架像を見た時、どんなに驚かされたことか・・・
久しく目にすることもできなかったものが、ここでは当然なことのように行われている。
スールたちの信心が何の恐れも妨げもなく保たれたことは、記念すべきことであった。

ある日、招待されるままに、思い切って、彼女らの宿舎に行ってみた。
スールたちは、全部でわずか7人だった。
彼女らを見た時、私の心にわき起った尊敬の情は生涯忘れ得ぬものだった。
修院長はスール・カトリーヌ・ペニェで、以後ずっと私のために母とも友ともなってくれた。

「あなた方はみんなイエス・キリスト様のため、その信仰の表明のゆえに流刑囚とおなりになったのではございませんか。少なくとも大部分の方がたはそうでしたね。」
と修院長は優しく私に言った。それから数分の間話し合ったが、私は、スールたちが非常に親切で、しかも才気に富んでいることを知った。
この談話の後、修院長は私を大層清潔に整えられた小室に導いた。
「神父様、あなたはここにいますお方のために追放され、このお方はあなたの長い船路を守り給いました。私は、神父様のために聖主(しゅ)に感謝申し上げましょう。私と私の家族のためにお祈りくださいませ。」
このことばは私の心に深い感銘と奮発を与えた。私は、母国を遠く離れたこのカイエンヌで、私の母の神を再び見いだしたのであった。私は身を伏せて主を礼拝し、感謝の祈りをささげた。そして、私がこの聖なる神のへやを出ようとした時、修院長は、「神父様、時どき私どもに御聖体を授けてくださいませ。あなたは幸いにもミサ聖祭をおあげになられます。」と言い添えた。

この訪問とその時交わした短い談話によって、私の心は平和を味わい、慰めさえも与えられた。
そして自分が追放のうき目に会っていることさえも忘れたほどだった。

スールたちは、シャルトルのサン・モーリスの母院との連絡を絶たれたまま、
祖国を追われて自分たちのもとに送られてきたありとあらゆる人びとに、愛徳の花びらをまき散らしつつ、
心と体の傷や病を癒しいたわったのであった。
迫害がようやく終わった後、スールたちの重責も幾分か軽減したが、スールの中には長年月にわたる激しい働きと心労に倒れる者が多く、修院長をはじめ次つぎと5名が神のみもとに帰り去って行った。

1808年、ギアナがオランダに占領されると、残されたふたりのスールのうち、ひとりは祖国の敵に仕えることを潔しとせず、シャルトルに帰り、ひとりだけが残った。この寛大な魂の持ち主であったスールのおかげで、1727年から今日に至るまで、種々の困難や政治家の権勢に任せた横奪、悪意による妨害などにもかかわらず、ギアナの聖パウロ修道女会の事業は中絶せずに続いたのであった。

1814年、ギアナが再びフランスに返還されたので、スールたちは母院と往復できるようになった。
メール・マリ・ジョソームはさっそく救援者を派遣し、雄々しくひとりで働きぬいた勇者を助けた。
そして学校、病者と黒人とその子どもを収容する養育院、病院などを創設し、あるいは既設事業に新しい生命を吹き込んだ。また、こうした施設を通して精神と肉体への奉仕をするかたわら、黒人たちに勤労を愛することと、畑を耕すことを、みずから手を取って教えた。
来る日も来る日も、病と無知と悪徳と死とに抗して働きながら、らい患者への救いの事業も忘れられてはいなかった。ナザレトのイエス・キリストが数ある病疾者の中で、とくにらい者に深い同情と愛と快癒のお恵みを注がれたことは周知のことであるが、スールたちも、その美しい模範にならってかれらへ優しい治療を与え始めた。

しかし、試練の数々もないわけではなかった。
1821年、時の海相がスールたちの学校を没収し、クリュニーの聖ヨゼフ会修道女に引き渡すことを強要した。
そこで聖パウロ修道女会のスールたちは、教育事業を聖ヨゼフ会に譲り、病人の看護だけを担当することとなった。
しかも政府は百年余にもわたる聖パウロ修道女会の奉仕を軽んじ、救済にあたるスールたちに不正な処置をとることをはばからなかった。そこでスールたちは、1823年には、ギアナを退去する用意をしたほどであった。
そうしたスールたちの決意の表明によって、さすがに政府のやり方も緩和され、それ以来、スールたちの実り多い献身の歳月が続いて行った。そして、沈黙のうちに働くスールたちの真価は、正しく認められるようになった。

さらに、ギアナのスールたちの双肩には、徒刑囚の世話という重任が課せられた。
3000余の囚人を迎える地として、ギアナが選ばれ、その世話をゆだねられた。

露したたるような麗しい深緑の熱帯植物が繁茂するこの地は、人を魅する景観とは逆に、恐ろしい死魔を宿す風土でもあった。疫病はギアナ全土を絶えまなくなめ尽くし、死は夜となく昼となく、またスールと徒刑囚との区別もなく、その生命を奪い去って行った。

しかも、こうした死と伝染病との捨身の戦いのほかに、スールたちの身辺には前科何犯という肩書を持つ荒くれ男たちに接する危険がさし迫ってきた。
すさみきった彼らがナイフや合口で切り合いを始める寸前に、身をもって争いをやめさせたり、武器を手にして仲間を追いかける囚人から、とぎすまされた包丁を奪い取って事を未然に防がねばならぬことも多かった。

島の監獄
また、スールの中には病者の看護中、狂乱した囚人に襲われ、頭上に大きな石を投げつけられた者もあったし、廊下を歩いていた時、頭に鉄棒の一撃を加えられたスールもあった。
幸い彼女は一命だけはとりとめたが、見るも痛ましい姿となってしまった。
そしてシャルトルの母院に帰り、加害者に救いの恵みを嘆願しつつ、まもなく世を去った。

しかしギアナには、悲しい殺人的な事件だけが山積していたわけではなかった。
この世の失墜者らも、スールたちがうまずたゆまず示し続けた愛徳の奉仕に心なごみ、あるいは幼いときの信仰を取りもどして感謝を表し、改心して安らかに神のみもとに帰り行くものも多かった。
あるものは、この地に流れてきた結果、初めて体験し得た愛の優しさと強さに感動し、みずからの手記にまたは家族への手紙に、その偽わらぬ真情を吐露した。
シャルトルの母院の聖堂や博物室に、その生きた証拠が現存している。

「病院では、シャルトルの聖パウロ会修道女たちが、私どもの看護に当たってくれます。
私の病室のスールは、私にとって第二のおかあさんです。その愛に比べうるものは何もありません。
愛するおかあ様、もしも私が天国へ行ったら、あなたとこのスールとのために祈りましょう。」

と、臨終を間近に控えた若い一囚徒は、故郷の母に宛てて書き送っている。

こうして、犠牲と涙とによって蒔かれた種は喜びの中に刈り取られ、年々各地区に施設の増加がみられた。
他方、救援に応えて、母院からも宣教女の精鋭が来島して事業を続けた。

1904年、フランス政界を風靡した反教権思想とその政策は、このギアナにも適用された。
法令によって、聖パウロ修道女会はギアナの全事業から追放された。1727年この方幾多の先輩たちが愛徳の犠牲となって倒れ、この緑したたる島の土に眠っている第二の故郷を去るにしのびなかったスールたちは、カイエンヌに私立病院を創設し、「聖パウロ会博愛医院」の名のもとに、伝統的な献身の日々を続けた。

ヨーロッパとアジアのほとんどの国々を痛め尽した世界大戦の間、
ギアナは直接の戦禍は何一つ受けなかった。しかし補給路を切断されたため孤立状態に陥り、
一片のパンもなく、ただわずかなマニホットと米と蔬菜で飢えを満たさねばならなかった。

しかし平和が訪れた今日、その活動はきびしい風土と疫病と迫害に鍛えられた力をもって、
めざましい記録を生み続けている。


海外宣教のひろがり

フランスの政界においては、1877年から79年にかけて共和党が政権を掌握し、極端な反宗教的政策が採られ、ほとんどすべての宗教団体を解散させ、学校教育から聖職者を追放したのであった。
このような社会の変動によって、聖パウロ修道女会経営の学校は1881年大部分が閉鎖され、教職にあったスールたちはほとんど追放された。最後の圧迫が加えられた1903年には、1881年の法令に生き残った学校など、フランス国内だけでも172校が閉鎖の運命にあった。

全面的な学校閉鎖によって多数の修道女の手があいたので、母院はその活動を国内の施療事業や
病家訪問、授産所・救済所などにふりかえて、休みなく愛徳の奉仕を続けた。
また、社会趨勢の反動としてか、あるいはカトリック者の自覚と団結のためか、
布教運動が旺盛になってきたので、多くのスールたちは、
愛する祖国で拒まれた平和樹立の使命を果すために、海外に赴いてその実績を収めた。
ベルギー、スイス、イギリスに聖パウロ修道女会が創業の喜びを持ちえたのも、この時であった。

なお、現在シャルトル聖パウロ修道女会の主要な活動圏となっている極東の諸地域には、1848年のホンコン定住をふりだしとして、1860年南ベトナムに、1878年日本に、1888年には朝鮮に渡り、1898年にはタイへと急速な創設が実現した。
20世紀にはいって1904年ラオスとフィリピンに赴き、東洋の諸国に白いコルネットの清楚な愛徳の花々を咲き香らせた。また、1984年にはオーストラリアに学校を創設している。

現在、世界5大陸、35か国でシャルトル聖パウロ修道女会の4000人のスールたちが、「すべての人に対してすべてとなる」の精神で、おもに教育・福祉の事業において奉仕を続けている。

カメルーンで活動する日本人スール


宣教地で働きたい。
そう願い続けていたスール末吉美津子は、
1994年、アフリカ カメルーンのミンドルウに派遣された。

村はずれにある修道院からピグミーの住む森へ分け入る。
人がやっと通れる道を行くと、ゴリラがひょっこり顔を出す。
毒へびがちょろちょろ横断する。
森の住人は45家族350人ほど。

彼らと同じように、
ゾウもゴリラもシロアリも食べた。
そうやって仲間に入れてもらって、
ピグミーの人たちと生きていく日々。
“森の人” と呼ばれるピグミーの教育と経済の自立を願って、スール末吉は今日も活動している。
  シャルトル聖パウロ修道女会の海外への広がり

                1727年ギアナへの宣教に始まり、海外への宣教活動は世界に広がっていった。

     海外宣教 年表
     1727 - ギアナ 1898 - タイ 1960 - 台湾  1984 - オーストラリア
     1775 - ブルボン島 1899 - 中国  1963 - アメリカ合衆国 1996 - モンゴル 
     1818 - マルティニーク島 1900 - スイス   1965 - カメルーン 1996 - コロンビア
     1820 - グアダルーペ島  1903 - イギリス 1965 - ブラジル 2000 - ロシア
     1848 - ホンコン 1904 - ラオス 1967 - ボルネオ 2000 -東ティモール
     1860 - 南ベトナム  1904 - フィリピン 1967 - インドネシア 2003 - ウクライナ
     1878 - 日本 1930 - イタリア 1972 - ハイチ 2004 - トルコ
     1881 - ベルギー  1930 - カナダ 1972 - アイルランド 2008 - カザフスタン
     1883 - 北ベトナム 1950 - 中央アフリカ 1981 - ペルー 2009 - ネパール
     1888 - 朝鮮 1955 - マダガスカル 1981 - ベトレヘム
  
つ ぎ »»»  5) 会の精神 
   《 メニュー 》 » ホーム
1. 発祥の地

ルヴェヴィル・ラ・シュナール
2. 創立者

ルイ・ショーヴェ神父
3. 修道会

1) 揺籃の家
2) 共同創立者
3) シャルトルへ
4) 海外宣教
5) 会の精神
6) 修道服の変遷
4. 日本における歩み

 1) 来日の背景
 2) 日本での始動/函館
 3) 東 京
 4) 新 潟
 5) 仙 台
 6) 盛 岡
 7) 八 代
 8) 片 瀬
 9) 強 羅
10) 鶴見・山形・他
5. 写真で辿るルーツ

1) ボース地方
2) ルヴェヴィルの教会
3) 揺籃の家
4) シャルトル大聖堂
5) シャルトルの母院
▲ページトップへ