日本における歩み
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■神奈川県鶴見/聖ヨゼフ学園の創設・協力勤務: 1953(昭和28)年~1981(昭和56)年 1953(昭和28)年2月、かねてから、フランシスコ贖罪会(アトンメントのフランシスコ会)から来援を請われて 準備中であった新しい支部の創設が実現した。 場所は神奈川県の鶴見、所狭しと大小さまざまの自動車が行きかう国道を足下に見下ろす高台に、 瀟洒な洋館が建てられてあった。
» 聖ヨゼフ学園 http://www.st-joseph.ac.jp/
■山形/双葉幼稚園における協力勤務: 1958(昭和33)年~1970(昭和45)年 1958(昭和33)年、桜の花も散りしく3月の末、聖パウロ修道女会は新しい支部創設の喜びを与えられた。 同会にとってはなつかしいゆかりの地、新潟の教区に属する山形へ招かれたのであった。 2年ほど前、イエズス・マリア聖心会会員デスペールベン司教から、 幼児のカトリック的教育と一般布教にあたるスールの派遣が要請されていた。 この宣教会が特に聖パウロ修道女会スールの来援を切望したのには深い理由があった。 この会の宣教師たちは長年、海南(ハイナン)で布教事業に挺身してきたが、その活動期間中、 かの地で聖パウロ修道女会のスールたちと終始ともに働き、 その惜しみない愛徳と献身の数々を目のあたりに見てきたからであった。 やがて、共産圏下に征服された中国から追放された宣教会は、日本に難を避け、 北国方面でその事業を続けることとなった。 こうして新しい分野の開拓に乗りだした宣教師たちは、かつてのゆかしい思い出をこの地でも再現しようと、 メール・アンナ・ドゥ・ジェズにその望みを明かした。メールは、適当な人材を整え、種々の考慮を重ねるため、 暫しの猶予を申し出た。その間、メールは、シャルトルの母院と交渉して、ついにスールを送ることが決定された。 そこで、さらに管区会計係のスールを派遣して準備万端を整えさせた。 スール・エレナ・マリア(市瀬静子)院長をはじめ3名のスールが選抜され、 メール・アンナ・ドゥ・ジェズに伴われて3月28日山形入りをした。
フランス人の神父が南米やタヒチ島、マレーシアのシンガポール等へ引きあげられると同時に、 聖パウロ修道女会も、カロンドレットの聖ヨゼフ修道会に後をゆだね、 1970年4月に思い出の地山形に別れを告げたのであった。
■石神井東京カトリック大神学院における奉仕: 1934(昭和9)年~1974(昭和49)年 1934(昭和9)年、石神井にある東京大神学院における奉仕が始められた。 函館からスール・ジュヌヴィエイブを院長として迎え、3人のスールが、 将来のよき司祭誕生のための奉仕に馳せ参じた。 時の神学校長は、パリ外国宣教会のS・カンドウ師で、外国人神父の教授が7~8名、神学生40名の 食事・衣類の世話という、目立たぬ労働の日々であった。
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