日本における歩み

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日本における歩み(2) - 日本での始動/函 館
 日本各地での
 創業一覧
1.函館  1878(明治11)年5月
2.東京  1881(明治14)年8月
3.新潟  1885(明治18)年9月
4.仙台  1892(明治25)年3月
5.盛岡  1892(明治25)年3月
6.八代  1900(明治33)年5月
7.片瀬  1936(昭和11)年9月
8.強羅  1944(昭和19)年4月
» 学校法人白百合学園(本部)  http://shirayuri-gakuen.ac.jp/
» シャルトル聖パウロ修道女会  http://www.spc-japan.org/

3人のスールの初来日

オズーフ司教がシャルトル聖パウロ修道女会修道女の派遣を依頼した当時の函館は、戸数約6,500戸、
人口は27,700人ほどであった。10年後の明治20年には、人口が50,000人を超えているのであるから、
いかに活気のある町であったかは想像に難くない。
発展途上にあった函館は、植民地的・開放的雰囲気をもった町であった。
開港により、いち早く文明開化の恩恵に浴した反面、風紀の乱れなど失なわれたものも多かったと思われる。
また、五稜郭戦争の脱走兵による放火のため872戸もの民家が焼失したこと、
このため、当時は捨て子が多かった。ともかく、函館は社会事業を必要とする町だったのである。

1878年、極東地区管区長メール・バンジャマンは日本に3人のスールを派遣した。
そのうちの2人は宣教地ホンコンからであり、もう1人はフランスを出てごく短期間南ベトナムに滞在した後、
日本へやってきたのであった。

オズーフ司教の、修道女を函館にという願いがかなったのは、
1878(明治11)年5月28日の早朝のことであった。
ホンコンでフランスの貨客船タナイス号 TANAЇS の船客となった
スール・マリ・オウグスト Soeur Marie-Auguste、
スール・マリ・オネジム Soeur Marie-Onésime、
スール・カロリーヌ Soeur Caroline
の3人は5月20日横浜港に着いた。
長旅の疲れを癒やすいとまもなく、船を乗り継いでさらに北上し、
28日早朝、函館の地に第一歩をしるしたのである。

タナイス号 TANAЇS

スール・マリ・オウグスト

スール・マリ・オネジム

スール・カロリーヌ
スールたちは、海から歩いて数分の山腹、元町三十七番地の官地を借り入れ、
木造の事務所を建てて働き始めた。
来日後まだ日も浅く、スールたちは今までの生活様式や、習慣、とくに言語の違いに驚嘆の目を放ちつつ、
それらの修得に余念がなかった。
そして遠い昔、ルヴェヴィルの村で4人の若い娘たちが、苦しむ人や病める人、
無知の中に放置された子女たちに愛の献身を思い立った時のあのつつましい奉仕の日々を、
ここでも積み重ねていけるように着々と準備を進めた。

スールたちが来函して3か月の後、メール・バンジャマンはサイゴンを発って函館のスールを訪れたが、
この時までに事業はささやかながら発足していた。
「一方には漁船が所せましと並んでいる美しい入り江が広がり、他方には人家にうめ尽された港町がございます。頭をめぐらしますと、ゆたかに生い茂った緑の森が山をかこんでおります。」
とメール・バンジャマンはその初印象の一端をシャルトルのメール・エリ・ジャレに書き送った。
一幅の絵のような景色の中に、スールたちの家は、2本のもみの木の間に2階建ての洋館造りの愛らしい姿を見せていた。住居のまわりには、草木が美しく咲き乱れた庭と、野菜が青々と生長した菜園があった。
町の人びとが地上の楽園かと見まちがうほど、そこは静かな理想境であった。
創設当初、修院の外観は人目をひきつけたほどエキゾチックな家造りであったが、まだ家具らしいものとてなく、
旅行かばんもあけたまま床の上に雑然と置く外はなかった。それに戸や窓も満足に閉まらなかった。
そこで、好奇心に駆られた人びとが、入れ代わり立ち代わりやって来ては見物していった。

1878年8月18日、メール・バンジャマンが初めて函館を訪れたとき、
4人目のスールを南ベトナムから連れてきた。スール・マリ・エリーズ Soeur Marie-Elise である。


孤児院・授産所・施療院の開設

スールたちの仕事は本格的に始められた。孤児院・授産所・施療院の開設である。
まず、8人の孤児を貰い受け、スール・マリ・エリーズがその養育にあたりつつ、小さな孤児院を開設した。
そのころの日本においては、この種の社会事業がほとんど顧みられていなかったので、
珍しい姿をした異国の婦人たちが、日本人の捨て子を集めて養っているという事実は、
すぐ狭い町の噂となり、さまざまな風評を受けた。

孤児院についで授産所を開き、まだなじみの浅い婦人たちに
針仕事の手ほどきもした。
最初、やや勇気のある2人の婦人が習いに来たが、
1か月後には12人となっていた。

この小さな2階建て洋館においての、
身振り手振りの「西洋裁縫」教育こそが、
130年余を過ごして現在に続く
白百合学園の創基の姿であったのである。

赤レンガの修道院

すでに孤児院・授産所を創設したスールたちは、小さい薬局を設けて施療院を始めた。
スール・マリ・オネジムがこれを担当し、彼女に尊敬と好意を持ち始めた町の人びとは、遠方からも訪ねてきて、
治療を受け、薬をもらって帰った。そして診療の親切さと医薬の効能がすばらしかったので、
10日間で患者は10人から25人に増した。
とくに、スール・マリ・オネジムが発案調合した軟膏は「ガンガン寺のヴィルジン様の膏薬」と呼び親しまれて、
求める人が僻地からもきた。


聖保禄女学校の開校

3人の修道女の来函から、8年の月日が経った。
長い間の苦しみを越えて、いよいよ充実した教育のできる
諸準備が完了し、
1885(明治18)年に念願の新校舎が落成したのである。

1886(明治19)年1月1日、
聖保禄(聖ポーロ)女学校」の開校式が行われ、
初代校長にはスール・マリ・オウグストが就任した。

スール・カロリーヌがようやくこなせるようになった日本語を
あやつって、集い寄って来た少女たちに技芸を教えた。
実技を教授するにすぎない学校ではあったが、
こうして貧しいながらも希望にみちた新しい使徒職の第一歩が
静かに踏みだされたのであった。

そしてこの創立当初、家庭的な雰囲気のもとに学校生活を送った子どもたちが、やがて嫁いで母となり、
自分たちの娘を養育するころになると、かつての感謝の思いが知らず知らずのうちにその娘たちを動かし、
修道生活へと導いて、多くの日本人スールが誕生した。

この小さい学校こそ、
現函館白百合学園のつつましい誕生の姿であった。


さらにこの女学校内に、1889(明治22)年4月、小学校を併設し、入学児童男子11名、女子11名の小さいグループをもって
新しい分野へスタートを切った。


1891年の末、シャルトルの母院は、極東におけるスールたちの
働きとその事業のすばらしい発展とにかんがみて、
今まで一括していたアジアの布教地を幾つかの管区に分割した。

そこで、日本と朝鮮を合わせて1管区となし、
函館のスール・マリ・オウグストを初代管区長に指名した。

以来、函館は日本におけるシャルトル聖パウロ修道女会の
本部となった。



1885(明治18)年に完成した校舎


併設された小学校生徒たち
(校舎下中央)
1891(明治24)年撮影


1891(明治24)年に建設された修道院
3階は育児院(6年後に増築された)
1892(明治25)年12月8日、正式ではなかったが、
4人の日本人志願者をもって函館に修練院が開かれた。
その後1894(明治27)年、10人の娘たちが入会を希望し、ここに修練院が名実ともに正式の発足を実現した。

1897(明治30)年9月、学校はさらに校舎を大増築し、
小学校を独立させて「私立元町女子尋常高等小学校」と命名した。
翌年9月8日、文部大臣によって、聖パウロ修道女会経営の学校は正式の認可を与えられた。
これは、日本における外国人経営の学校中最初のものであったため、
生徒の数もとみに増加の一路をたどっていった。

さらに同年、本部と修練院とを首都東京に移転させ、管区長メール・マリ・オウグストは東京に移住した。
その後、日本管区本部としてのはなやかな地位を去ったものの、函館の施設は着実な歩みを進めていった。

1899(明治32)年7月には、年来の宿願かなって寄宿舎を開いた。
最初8人の生徒をいれたが、1年とたたぬうちに30人となった。
子どもたちは、朝な夕なスールたちとほぼ寝食をともにし、実生活のすみずみにまで浸透している
活きたカトリシズムを知らず知らずのうちに体得していった。
後に、寄宿舎にいた生徒や孤児院にいた子どもたちの中から12名の信者の教師が輩出し、
そのうち5名は修道生活への召命を感じて修道女となった。


大火による被災と復興

函館の全事業は、神の豊かな祝福を受けて進展の一路を走り続けた。
1907(明治40)年8月25日の夜半、港の一角から燃えあがった火の手は、折からの強風にあおられて、
1時間のうちに函館の町を焦土と化した。
この大火によってスールたちの30年の労苦の結晶、
養育院・孤児院・博愛医院・小学校・女学校・寄宿舎
および一切の付属施設が、わずか30分の間に
灰じんに帰してしまった。

スールたちは、直ちに再建にとりかかり、
篤志な人びとの援助に強められつつ、
女学校と博愛医院とを復興させて愛の奉仕を続けた。
しかしこの大火を機会に、女子小学校を廃止することとなった。

1920(昭和5)年当時の校舎

北海のかなたに位置する函館では、瞠目すべき事業の発展は見られなかったが、
沈黙の中に献身の日々が続けられていった。
そして資金の目当てがついた1950(昭和25)年の暮れからベビーホームが増築され、
年を追って、養護施設の3階建て屋根裏を4階建築にして子どもたちの寝室にあてたりして、
付属建物の拡張と充実につつましい展開をみせていった。

1980年(昭和55年)4月、100年余を過ごした元町から山の手へ移転し現在に至っている。


  » 函館白百合学園  http://www.hakodate-shirayuri.ed.jp/


スール・マリ・オネジム Soeur Marie-Onésime



 
胸に勲章を付けた
スール・マリ・オネジム


 記念館に展示された立像


1938(昭和13)年4月30日、函館および日本におけるシャルトル聖パウロ修道女
会の創立者の最後のひとり、スール・マリ・オネジムが93歳で永眠した。
スール・マリ・オネジムは、1878(明治11)年に来日してこの方、
実に60年間、新潟の支部創設の折にしばらく函館を離れたほかは、
一貫して函館の慈善事業に献身し続けたのであった。

極貧のうちに生まれ、貧しく生き、清貧につつまれてその生涯を閉じられた
イエス・キリストにあやかって、聖パウロ修道女会のスールも
つつましく葬られるのがならわしであったが、その遺骸の胸には
1928(昭和3)年フランス政府から贈られた勲章が一つ飾られた。

1992(平成4)年8月、元町にある旧英国領事館跡に、函館開港記念館が開館し、
それと同時にスール・マリ・オネジムの立像が、函館の開港に尽くした国の一つ
フランスを代表する人物として、記念館内に設置・展示された。

 函館市の外国人墓地の一角にあるシャルトル聖パウロ修道女会墓地。
 函館山を背に、眼下には函館湾が広がるこの地にスール・マリ・オネジムは静かに眠る。
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1. 発祥の地

ルヴェヴィル・ラ・シュナール
2. 創立者

ルイ・ショーヴェ神父
3. 修道会

1) 揺籃の家
2) 共同創立者
3) シャルトルへ
4) 海外宣教
5) 会の精神
6) 修道服の変遷
4. 日本における歩み

 1) 来日の背景
 2) 日本での始動/函館
 3) 東 京
 4) 新 潟
 5) 仙 台
 6) 盛 岡
 7) 八 代
 8) 片 瀬
 9) 強 羅
10) 鶴見・山形・他
5. 写真で辿るルーツ

1) ボース地方
2) ルヴェヴィルの教会
3) 揺籃の家
4) シャルトル大聖堂
5) シャルトルの母院
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