日本における歩み
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オズーフ司教は、みずから招き寄せた聖パウロ修道女会が、函館でも東京でも期待にそって発展していく様子を 理解ある慈父の目で見守っていた。 そして、この会のスールたちなら、他の都市への来援を請うても快く受け入れてくれるだろうと考えた。 そこでオズーフ司教は、メール・バンジャマンに、新潟をはじめ仙台・盛岡へのスール派遣方を要請した。 その知らせはすぐシャルトルの母院へ送られ、その一つに応えて新潟での新設が許可されたのであった。 オズーフ司教の招きに応ずる旨を伝えると、新潟の主任司祭は、聖パウロ修道女会のために土地を購入し、 修道院と孤児院とその側に施療院とを建て、その来着を待った。 1885(明治18)年9月12日、函館修道院長スール・マリ・オウグストは、施療係のスール・マリ・オネジム、 子ども係のスール・カロリーヌと、東京から新施設の責任者として呼んだスール・ヴィタリヌ・ジョゼフを伴って 新潟入りした。
この地には最初から試練が待ちうけていた。 土地の人びとはほとんど未信者で、その道徳的水準は低く、とくに若い娘たちは危険にさらされていた。 しかも、ここでは白が喪の色として忌みきらわれていたので、スールたちの着用していた修道服のおもな箇所が 白でおおわれているのを見て、人びとは非常に忌避する態度を示した。 しかし、愛はすべてを解決する。スールたちは、偏見に愛徳のかぶとだけで立ちむかい、 すぐ育児院・授産所を設けて、子どもと娘たちに救いの手をのべた。 またそれと同時に病家訪問を始めたが、スールたちが姿をみせると、浮浪児が群をなしてついてまわり、 歌をうたってはやしたてたりなどした。 1年はまたたく間に過ぎた。 創設後間もなく東京から赴任したスール・マリ・アスパズィーが、伝道士の協力のもとに施療院を始めたが、 最初の1日は1人の患者も来なかった。次の日から、盲人や歩行困難な人などが集まってきたが、 スール・マリ・アスパズィーは、彼らの不治の病を癒やすことはできなかった。 しかし、その親切な治療と初めて耳にするやさしいはげましの言葉にそのかたくなな心も和らぎ、 週に3回、2時から4時までの規定を越えて、毎日、一日中集い寄ってくるようになった。 よい便りは、風よりも速く、人びとの口から口へと伝えられていった。 ある日、医者から見離された幼児を抱いて1人の母親が尋ねて来た。 スール・マリ・アスパズィーは、その子を腕に抱きかかえ、無駄とは知りながら薬を与えた。 すると、数日来絶望の状態にあった幼児が息をふきかえした。幼児の母親の喜びと感謝は絶頂に達し、 白い大きな帽子をかぶった西洋婦人のすぐれた腕前を、道すがらほめたたえながら帰って行った。 この事件以後、スール・マリ・アスパズィーの名は町中に知れ渡った。 来る日も来る日も、あらゆる病疾者が群れをなして、スール・マリ・アスパズィーの治療を受けにつめかけた。 事業を開設してから3年目の1888年の1年間に、スール・マリ・アスパズィーは93人の子どもと73人のおとなに 洗礼を授ける喜びを体験した。ところがこの盛況をねたんだ新潟の医師たちは、 いきりたってスールたちの愛徳と救霊の仕事を妨害しようとした。 真理に生きるスールたちは強かったし、町の人たちも、奉じている教えは異なっても親切を解することをわきまえる 善良な人びとだったので、事業は、妨害に負けず、順調に進展して行った。 孤児院には、4歳から16歳までの子女が60名余り収容されていた。その中の40人以上は、スールたちが 引き取らなかったら、恐ろしい習慣によって売り飛ばされるか、取り引きされる運命にあった子どもたちであった。 スールたちは、この悪徳から子どもたちを救いあげ、養い育てながら、年長の少女たちには授産所で能力にあった 技芸や家事の手ほどきをして、子どもたちの将来のために計った。
しかし、この地には災禍が尽きなかった。事業の進展と人びとの理解を得た喜びもつかの間、台風に襲われて、 新装成った堅固な建物も大修理を余儀なくされた。このさわぎが落ちついて3年とたたぬうちに大洪水がおこり、 人家はいうまでもなく、田畑も根こそぎ流し去られ、人びとは外米を輸入して生活の維持をはかるほかなかった。 ところが、インドや中国から買い入れた米は高価で手が出ず、民衆は赤貧のどん底に苦しんだ。 このとき、スールたちはみずからのことを忘れて、清貧の中からきりつめた財を投じて人びとの救済にあたった。 折も折、日露間の武力抗争が始まったので、ヨーロッパ人は種族、国別の如何を問わず敵視され、 恐ろしい怒りの的となった。そこでフランス人のスールたちは、日本の兵隊たちのために毛織物の衣類や その他の必需品を作り、キリスト教的愛徳の寛大さと繊細さとを余すところなく発揮したのであった。 ようやくすべてが平静にもどり、事業も好調の歩みにもどった矢先、 1908(明治41)年9月3日から4日にかけて、町の一角から燃えあがった火は新潟全市をなめ尽し、 スールたちが辛苦とともに育ててきた施設を潰滅させた。
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