日本における歩み

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 ■日本における歩み(7) - 八 代


キリシタン殉教ゆかりの地-八代

函館や東京での布教活動や愛徳事業に献身している聖パウロ修道女会スールの働きを見聞してきた長崎のクーザン司教は、シャルトルの母院にむけて、九州熊本県下の八代にスールの派遣方を要請してやまなかった。
1898(明治31)年、極東地区の巡察に来日したメール・マリ・セリナは、クーザン司教を訪れた。
八代の地は、日本カトリック教会史上特筆すべき1603(慶長8)年のヨハネ南五郎左衛門、シモン竹田五郎兵衛以下、数知れぬ殉教者を出したゆかりの町であった。明治初年、日本におけるカトリック教会が復活された際、八代の人びとの教化について着目されてはいたが、種々の事情から実現をみるにいたらなかったのである。
やがて1889(明治22)年4月、コール師の来代によってようやくカトリック再興の糸口が得られた。
コール師は教会設立の準備のかたわら、魂の救いもさることながら、
多数の貧しい病人たちに対して救いの手をのばさねば、と痛感した。
そこでクーザン司教にも依頼し、折から来日中のメール・マリ・セリナとも本格的な相談を進めることとなった。

一切の事情を知ったメール・マリ・セリナは、母院の承認を得て、早速、スール派遣の準備にとりかかった。
1900(明治33)年5月11日、院長スール・ウラリ・ドゥ・ラ・クロアは、スール・アンジェル・ドュ・カルヴェル、
日本人スール スール・マリ・ジョゼフ(小磯エイ)の2人とともに東京をたち、13日、コール師に迎えられて
八代入りした。スールたちは、コール師が用意してくれていた二之町の家に落ちついた。
そこには、家具一つなく一脚の椅子さえなかった。
スールたちは、3つの石を並べてかまどを作り、そこを台所にあてた。


八代での創業

こうした不自由と極貧の中にも、スールたちはすぐ愛徳の奉仕に乗り出した。
近所の婦人や若い娘たちを集めて裁縫・編物・刺繍・レース編など、ヨーロッパの技芸を教え始め、
それと時を同じくして、貧しい病者への施療にも着手した。
一方、よるべない子どもたちにも援助の手を差し伸べた。仮宿舎のせまい部屋をさいて、
3人の不幸な女児をもらい受け、院長スール・ウラリ・ドゥ・ラ・クロアがその養育にあたり、
こうしてささやかな孤児院の発足をみたのであった。
これが八代創業の第一歩であった。

しかしこの仮住居も、12時間も吹き荒れた台風のために、正面入り口の壁、天井、屋根の一部が
痛々しいまでに破壊されてしまった。家の修復が必要となったが、コール師は、事業の将来性を確信して、
より広い地所に本格的な施設を新築することを思い立った。
計画は着々と実現され、12月12日、長町に修院および平家造りの一棟の育舎の竣工を見、
事業は着実な歩みをふみ出すこととなった。

さらに翌1901(明治34)年には2階建ての病院が新築され、
博愛医院」と称して広く病者への奉仕に挺身し、スールの増援や
看護婦の増員によって、充実した診療を施すことに専心した。
一方、ナザレトの聖家族の平和な日々の営みにちなんで、
ナザレ園」と呼んだ孤児院もその真価を認められ、
遺児の養育を依託する人びとが年を追って多くなってきた。
そこで、需要に応えて2階建て1棟の新築を行い、孤児たちの
身心にわたる健全な成育に腐心した。

八代でも創業当初から学校設立の計画が練られていたが、
スールたちの手も不足がちであったため着手できずにいた。
ようやく、社会事業が一段落ついた後、県および郡の要望と協力に
よって、1909(明治42)年6月16日、
私立八代女子技芸学校」の設立が実現するに至った。
生徒数わずか42名のささやかな発足であったが、
女子としての人格陶冶と高度の技術教育とが
地方民の期待に添い、年々入学志願者が増加していった。

1914(大正3)年2月、校名を「私立八代技芸女学校」と
改称し、新分野を開いてその充実に尽力した。

その3年前から、博愛医院では、小額納税者に対して無料で
薬を与える特典を施行し、その便を計った。
このしきたりは第一次大戦後まで継続され、病者への愛徳事業は
大きな発展を遂げた。
戦禍のためフランスの母院からの送金が絶え、その維持が
困難になったときも、スールの社会福祉への献身的な努力を
認めた政府の助成金を得て、
ようやくこの危機を乗り越えることができたのであった。

学校も数度の組織変更を経て、1926(大正15)年4月、
八代成美高等女学校」と改称し、
その歩みは一層着実に進められていった。

孤児院の方も、収容児の増加に伴って育舎が手狭となり、
1932(昭和7)年、2室を増築して事業の発展に備えた。
八代の施設には、災禍がもたらし不幸や、経済的な困窮の
犠牲者だけが受け入れられたのではなかった。
伝統的な信仰生活に生きる九州の信者の家庭では、
幼少のころからわが子を神に捧げ、スールのもとで、清浄無垢な
宗教的生活を営ませようと、子女をゆだねる美しい習慣があり、
そうした良家の幼児や娘たちのためにも、
広く開放されたのであった。
また病者への救いの手も拒まれることはなかった。

1900(明治33)年 最初の修道院
(2000年に国登録有形文化財となる)


最初の校舎


私立八代女子技芸学校 第1回卒業生
1912(明治45)年3月31日




1934(昭和9)年11月には2階建て1棟の増築を完成し、新たに養老部が設けられた。経済不況によって
失業者が増し、扶養者を失った孤独な老人が多くなった実状に直面して、その救済に当ったのであった。

1940(昭和15)年、博愛院の事業の一部として創設、継続してきた養老部を
ナザレ園に合併して運営の便と充実を図り、全施設の向上発展に尽力した。


太平洋戦争中と戦後

太平洋戦争中、時局が緊迫すると、女学校の最上級生は熊本の軍需工場へ動員され、
残った生徒たちは農繁期ともなれば出征遺家族の畑仕事の手伝いにおもむき、あるいは、
学校農園で食糧生産や炭焼きまでして働いた。
一方、工場の多い八代市では空爆の危険が多いので、ナザレ園の疎開が計画された。
二駅へだたった段に好適地がみつかり、地所付の民家を買い取って小学生以下の乳幼児が引き移った。

戦後しばらくの間、段の疎開地をそのままナザレ園として使用していたが、
1946(昭和21)年11月、正式の認可を得て八代に養護施設を設置し、乳児院と並んで
災禍が生んだ不幸な子どもたちを収容するに及び、段の住居と地所をもとの所有主に売り渡し、
八代長町に移転した。さらに同月、博愛医院が設備機構を整え、病院に昇格する栄誉をかち得た。
これを機会に、院内に施薬救済部・産院部・養老部を設け、収容者に対しては一切の費用を免じ、
衣服のつくろいから食事はいうまでもなく、その霊魂にも心行くまでの配慮がなされるようになった。
スールたちは目前の成功や収穫を追わず、その昔、流し尽くされた幾多殉教者の聖血にうるおされた信仰の種の
芽生えの一助ともなれば、とのつつましい切望を秘めて、ひたすら奉仕の道を進んでいった。

1950(昭和25)年5月、段のナザレ園疎開施設や地所を売却した資金で乳幼児部のための
ベビーホームを新築し、その完成の日に創立50周年記念祝典を挙行した。

1954(昭和29)年、幼稚園と養護部の建物を増築し、内部の模様替えを行った。
この施設拡張の結果、幼児や生徒たちの居所が病院と近接するに至ったので、
衛生上の見地から、入院患者を収容する病院を廃止し、規模を縮小して診療所とした。
翌年4月、幼稚園が開設された。

2008(平成20)年、八代白百合学園は新八代駅前に新築移転し現在に至っている。


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4. 日本における歩み

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 2) 日本での始動/函館
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 6) 盛 岡
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10) 鶴見・山形・他
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