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 ■日本における歩み(8) - 片 瀬

乃木大将ゆかりの地に創業

1936(昭和11)年9月13日、ここ湘南の地 片瀬にも、
聖パウロ修道女会スールが見かけられるようになった。

篤信なカトリック者として公私ともに著名な山本信次郎氏の
あっせんと後援とによって、
時の日本管区長メール・アンジュ・マリアが土地を購入し、
修道院と幼稚園とを創設したのであった。

松林に色どられた砂地のこの地所は、かつて乃木大将が
毎夏海水浴に来ては学習院の生徒とともに
テント生活を送った記念の地であったので、
その名にちなんで「片瀬乃木幼稚園」と称されることとなった。

創設当初、夏期は別荘にし、冬の間だけ保育にあたる計画
であったが、人びとの切望に動かされて四季常設のものへと
発展した。
開園式の日には乃木大将の銅像除幕式もとり行われた。

翌1937(昭和12)年3月4日に「片瀬乃木小学校」、
あくる年には「乃木高等女学校」の設置認可が与えられ、
スール・ジョゼフィン・ドュ・サクレ・キュールを校長として
学校教育への参画を果たした。

1942(昭和17)年、乃木高等女学校にほど近い
庭園付日本家屋の別荘が、一修道女の家族から
付属家屋とともに寄贈されたので、
これを寄宿舎にあて、生徒の便宜を図った。
ここが、後にナザレトと称して、年老いたスールたちが
使徒的活動の前線から引退して、祈りと犠牲とによる聖職に
余生を過ごす休息の家の土台となった。

スールたちは、社会の変転する風潮を越えて、
謙遜・勤勉・従順のモットーのもとに
ゆるがぬカトリック的教育を、
つどい寄る子どもたちに与え続けてきた。

片瀬乃木幼稚園開園式後 記念碑の前で


片瀬乃木小学校校舎落成


乃木高等女学校校舎落成


学童疎開の受け入れ、そして強羅への集団疎開と戦後

戦争の荒波は江の島の景勝の海辺にもおし迫って来た。
上級生は防空服に身を固めたスールたちに引率されて、
藤沢・大船などの軍需工場に動員され、学校も工場と化して在校生の職場となった。
東京地区で学童疎開が叫ばれるころになると、希望者をこの地へ収容して難を避けさせた。

しかし何はともあれ、片瀬での最高の苦労は食生活の面であった。全くの町でもなく、農村でもなかったので、
最悪の配給制のもとにおかれたのであった。スールたちは数えるほどの米粒が浮かんだかゆをすすり、
預かった子どもたちにできるだけの栄養を取らせようと腐心した。
ほとんど毎日、在学生の父兄や関係者のつてを求めて、荷車をひき、リュックサックを背にして
遠く買い出しに奔走した。そのうちに片瀬も危険視されるにいたったので、再び強羅に集団疎開を決行した。
貯えもなく農園もなかった片瀬の修道院では、その後もきびしい食糧難にあえぐ日々を送っていった。

1946(昭和21)年、片瀬の乃木高等女学校は「湘南白百合学園」と校名変更し、
東京の姉妹校として名実ともに整備された。
松の緑の中に白壁と赤屋根の姿を見せて建つ平和境に、日増しに生徒も多くなっていった。


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