国語国文学科
小林 明子 (准教授)
「じっくり考える」ことのできる大学。
それが白百合の変わらぬ最大の魅力だと思います。 PROFILE |
(聞き手)(以下略)◎先生は、日本近代文学、島崎藤村を中心に、キリスト教と文学の関係性について研究されているとお聞きしています。まず先生のご担当される「近代文学演習」などの講義について、教えていただけますか。
日本の近現代文学の作品を取り上げているのですが、島崎藤村との関連で考えるとなるべく学生と同年代の登場人物が出てくる、あるいは10代後半~20代前半ぐらいの主人公が登場する、そういう作品を取り上げるようにしています。その理由としては、自分と同年代で違う時代を生きた登場人物の考え方に、共感したり、違和感を覚えたり、その両方を感じて欲しいからですね。共感するところは再確認になるだろうし、違うところはなぜ違うのだろうと、それを考えることが大切だと思います。その違和感の原因を追及すると、時代背景や信仰だったり、道徳観などの違いに突き当たると思います。今、私たちが生きている平成の時代と、明治・大正時代との違いが明確に分かるような教材を選んでいます。それだけでなく、遠藤周作の作品なども、キリスト教の受け止め方を通して東洋と西洋について考える目的のために扱っています。
実際にそれらの講義を受講する学生の反応はいかがでしょうか。
学年によって受け取り方は違ってきます。1つの教材を扱っても、入学したばかりの一年生の場合、登場人物の悩みに対して、「なぜそんなに深刻になるんだろう」という感想を持ちます。しかし、学年が上がると、卒論で自分がどのような研究対象を選ぶのかとか、就職先についてなど、自分がおかれている現実を意識する機会が増えます。当然それぞれに悩んだりすることがあるでしょう。例えば藤村の『桜の実の熟する時』を読むと同年代の登場人物が深く悩む姿が出てくるわけですが、具体的な悩みそのものは違っていても、それを理解することができるようになっていると思います。
先生の担当される授業で工夫されている点などありますか。
常にではありませんが、授業内容に即して明治期、大正期に発刊された本、雑誌を実際に授業で手に取って見てもらうことがあります。触れるとボロボロになってしまいそうなものなのですが…。今、学生が接するのは、おそらく書店に並んでいる真新しい新刊書だと思います。古本と呼ばれるような書物に触れるだけでも、ちょっとした驚きがあるようですね。ここにあるのは婦人公論、有島武郎の追悼本などです。
面白いですね。では、学生が文学を学ぶことによって、卒業後の社会生活で生かされることは具体的にどのようなことだとお考えですか?
私の専門の日本文学とキリスト教というところで考えてみます。キリスト教は古くから日本で信仰されていた宗教ではなく、西洋から移入したものです。日本人に親しみのある宗教としてはやはり仏教や神道の存在の方が大きいわけです。宗教の違いによって、それに付随する価値観の多様性を教えてくれるのも文学の一面だと思います。
社会生活を営むなかでは、多くの人々と接していくのですが、そこでは他者の価値観にふれることになります。また、本を読む場合には考え方が示されています。いろいろな考え方があるということを知り理解することが重要です。自分の考えと違うからといって排除するのではなく、他者を認めながら、「自分という者はどうあるべきか?」と自ら問い続けて欲しいなと思います。言いかえれば、文学を学ぶことは自分を含めた人間を知ることであり、文学は視野の広い人間になるための糧となっているのではないかと考えています。
先生は白百合のご出身ということで、以前の白百合と今の白百合で変わった点、変わらなかった点を教えてください。
変わった点は、キャンパスの施設がより一層充実したことでしょう。変わらない点は、「じっくり考える」場(環境)を大学が提供しているところと、その結果として学生が「じっくり考える」という姿勢を身につけて卒業していくことですね。自分の生き方の選択は押しつけられるものではなく、結局自分で考えぬいていかなければならない。白百合にはその自分で考えるための機会が数多く提供されていると思います。その機会というのは多種多様ですね。
大学や学科などによる講演会などがそれにあたります。これらの催しはずっと昔から、私が学生の頃から続いています。私自身も学生時代に、そのほとんど全てに出席していましたが、普段勉強している専門科目とは全く違い、講演の内容は本当にさまざまで、また別の刺激を受けました。「じっくり考える」ことのできる大学。それが白百合の変わらぬ最大の魅力だと思います。
どうもありがとうございました。
(聞き手 / 「アンシャンテ」編集部 2006年11月15日 研究室にて)




