ホーム > 研究室訪問 > 宗教科 田畑 邦治(教授)
 

研究室訪問

田畑 邦治(教授・宗教科)
宗教科
田畑 邦治(教授)
白百合の学生は物事に対する取り組みの姿勢が「素直」です。人生を深く理解し、さらなる成長を遂げるためには大切な要素だと思います。

PROFILE
1947年生まれ。上智大学大学院哲学研究科哲学専攻修士課程修了。“日本の思想におけるキリスト教理解”“個人および人格の宗教哲学的意義”“コミュニケーションおよびセクシュアリティの人間学”などをテーマにした研究のほか、近年は「日本人の死生観」を考えることで、その生と死が持つ意味を見つめ直す試みを行っている。著書に『改訂・ケアの時代を生きる』(単著)『哲学−看護と人間に向かう哲学』(共編著)など。また、NPO法人「生と死を考える会」理事長として、講演や雑誌等への寄稿・連載も多数ある。

担当科目
「キリスト教学Ⅱ」「宗教学ⅠB」「宗教学ⅡD」「哲学」
「教育学概論」「道徳教育の研究」


(聞き手)(以下略)先生は、調布市文化・コミュニティ振興財団主催の市民講座のひとつとして「東西の死生観」をテーマにした講演をご担当されたことを記憶しています。医療の充実とともに、日本人の平均寿命は世界一となりましたが、その一方で、高齢社会を迎えた今日、「ターミナルケア」(終末期医療)の視点から、“人生の終着点をどのような形で看取ってあげるべきか”が議論されつつあります。高齢社会においては、周囲にいるものが、そのひとの生きざまをどう尊重してあげられるかと同時に、一人ひとりが「生きる」ことの意味(死生観)をし


(先生)(以下略)
そうですね。ここ数年、日本の古典を読み直す作業を通じて、昔の人々の死生観を探ることで、「日本人の死生観とは何か」を問い続けてきました。「死」をどのように捉えるかは、人の感受性や情緒に左右されるところが多いと私は思います。そのために、その感受性や情緒を丁寧に学ぶことが死生観を探る意味で重要になってきます。
私たち現代に生きる人間は、昔の人々と比べその寿命ははるかに長くなっています。また、「死」を医療現場に隔離したために、日常において実際の「死」を直接的に体験することは極めて稀になりました。
ある意味では、「生きること」「死ぬこと」に対する喜びや悲しみからも疎外されつつあると言っていいでしょう。他方、現実以上にバーチャルの世界への依存が強い若者は、ゲームやアニメ・映画などを介して“悲しみ”のないバーチャルな「死」を日常茶飯事に疑似体験しているわけです。こうした感受性の欠落が「死生観の空洞化」に結びつき、さまざまな不安や精神病理を引き起こしているようにも思えます。


なるほど。「死生観の空洞化」ですか。では、そもそも「日本人の死生観」とはどういったものだったと先生はお考えですか。


『古事記』『万葉集』『源氏物語』など日本の古典文学では、悲しみや喜びが丁寧に描かれています。特に、愛するものと別れることの悲しみ、離別の涙に日本人の死生観の深いところが示されているような気がします。ちなみに、『古事記』においても、イザナミノミコトに先立たれたイザナキノミコトが悲しみに暮れ、涙する様子が描かれています。これなどは物語上のものではありますが、日本人のはじめての死であり、そのイザナキの悲しみの涙から新しい神(泣沢女の神)が誕生さえもしています。そもそもイザナミの死は火の神(火の夜芸速男の神)を産み出すことによってもたらされた悲劇でもあり、この場面でも「死」は「生」に隣接する側面を併せ持っていることがわかります。
つまり、「生」と「死」は表裏一体の関係にあるわけで、死を悲しみながらも、その悲しみにはどこか大自然との一体化、言い換えれば、自然の摂理としての「死」を受け入れる日本人の死生観の原点が見え隠れしています。そこに生ずる悲しみには「空しさ」や「不条理」といった人生に対する直接の絶望感を見出すことはできません。江戸時代の国学者である本居宣長は、「もののあわれ(人間の魂の根底から発せられる、やむにやまれぬ感動)」に『源氏物語』をはじめとする日本の古典文学の本質があると指摘していますが、日本人の死生観もまた、日々の意識としての「もののあわれ」を大切にする生き方に見ることができるのではないでしょうか。


興味深いですね。授業では、そのあたりのこともテーマとして扱われているかと思いますが、白百合の宗教学科目の特徴なども含めてご紹介いただけますか。


研究室にて

白百合で開講されている宗教学科目は、教養としての「キリスト教」を学ぶ機会を持ってもらうだけでなく、その学びを通して、一人ひとりが持つ自身の存在価値に気づき、それを大切に育てていくことの重要性を理解することを目的としています。
私が宗教学科目として担当しているのは「キリスト教学Ⅱ」と「宗教学ⅠB」の2つの授業になりますが、必修科目である「キリスト教学」は1・2年次にかけてキリスト教のおおよその姿を学ぶことで、“人間一人ひとりの価値は世間一般の価値観では計り知れない側面を持っていること”“自分自身をもう一度見つめ直しその可能性を探ること”“他者の存在を互いが尊重し合うこと”の大切さを理解してゆきます。3・4年次に選択必修として設定されている「宗教学」は、教養としての宗教学の要素がより強まり、さまざまな出来事の背景にある宗教的なものをテーマとして取り上げることで、宗教と現代社会とのかかわりを探究する授業となります。先の「日本人の死生観」などは、「宗教学ⅠB」の授業の中でテーマとしています。
いずれにしても4年間という長い時間を通して宗教学に触れる機会を持つことができるのは白百合の大きな特徴だと思います。価値観が混沌とする時代だからこそ、こうした学びの中から、自分なりの心の支えになるもの、困ったときに参考に出来るものを見出し、しっかりとした足取りで社会に巣立っていってもらいたいですね。


最後に先生の持つ白百合生のイメージをお聞かせください。


社会が変化しているわけですから、時代とともに白百合生の気質も変化している部分はもちろんあって当然です。でも昔から変わらないと思うのは、白百合生はすごく柔軟な心を持っていて、物事を素直に受け入れることができる素地があるということです。
たとえば、ちょっとしたリアクションペーパーを提出してもらったりすると、ほとんどの学生が真剣かつ丁寧に反応を返してくれます。レポートの内容なども感受性豊かで、こちらが想定していた以上の深い洞察を彼女たちは示してくれます。問題に真剣に取り組む姿勢やセンシティヴな感覚というのは一朝一夕にして身につくものではありません。そのような能力を彼女たちは潜在的に持っているわけですから、あとは4年間の学びを通して、良い意味での批判精神を組み入れることで、成熟した「素直さ」を身につけていくことができればいいと思いますよ。
白百合はそうした学びの場にふさわしい雰囲気を持っていますから。


どうもありがとうございました。


(聞き手/「アンシャンテ編集部」 2004年4月26日 研究室にて)