白百合について

学長室の窓から No.38

2022年10月19日

手触りからの得るもの
 

白百合女子大学
副学長 小林 明子

 長く続いた暑い日々が遠のいていきつつあり、時には朝晩に肌寒さを感じるようになりました。

 後期の開始とともに、年度後半の学生生活が始まりました。それぞれの学年において、履修、課外活動、就職活動などさまざまな場面での取り組みが続き、また決断を迫られるような場面もでてくるでしょう。感染終息には至らない状況ですが、感染防止についての留意を怠ることなく歩みを進めてまいりましょう。今月22日から23日に開催される白百合祭は、事前予約制ではありますが、対面で実施されます。実行委員の皆さん、そして参加される学生の皆さんのこれまでの準備が実を結びますようにと祈っております。

 こうした人と人とがふれあう機会が、新しい形をとりながら次第に多くなりつつあります。人と人との間だけでなく、人によってこの世にもたらされたものは、人と人とを繋ぎ、新たな関係性の構築に際して手助けをしてくれることもあります。私たちがふれあうものの背景には、人の存在があります。創造することを支える、そこに辿り着くための研究という行為、そして結果として創造されたものの意義や価値は、単に世の中全体の役に立つことだけにあるのではなく、世の中を構成する人々の個々の日々の生活、生き方の見えない部分によって成り立ち、そして見えている事柄にも影響していくものと思います。

 秋というと、芸術の秋、食欲の秋、読書の秋、スポーツの秋等々、人々の意欲を高めるような季節ととらえられます。それは夏が溌剌とした外向的な面をもっている一方で、暑さゆえに人を疲弊させる季節であることから、それを乗り越えたからこそ得られるものとして際立って受け取られる面があるかもしれません。そうしたキャッチフレーズのようなものに徒にとらわれる必要はありませんが、何か関心をもつ事柄へ視線を向けてみることは無意味なことではありません。

 先日、日本の幾つかの地域から創作された陶芸、工芸作品にふれる機会を得ました。日本には唐津焼、備前焼、美濃焼等々、よく知られたものがありますが、材料の違いは完成した作品に風合いの違いを生み、実に味わい深いものです。日常の生活で使うものから、冠婚葬祭時に必要とされる什器の類など、多様な用途を目したものに直に手でふれることができました。一部は、作りの繊細さから手袋を嵌めることが求められるものもありましたが、それもまたそのもの自体の特質を示す証です。こうした器は、その形状、描かれた絵柄、色を鑑賞するともに、実際に手にとって、触れてみることで、重量感や表面の滑らかさやざらついた感触から伝わる陶工らの思いにふれることにもなります。器を通してふれる、その向こう側にいる陶工の修練や努力に思いを馳せるひとときでした。

 これは、本や雑誌の場合にも言えることです。実際に本や雑誌に触れると作家、編集者、装幀者の存在を思い、さまざまなことを考えさせられる時でした。学部1年生の時に、教授の引率のもとで行われた古書店巡りに参加し、その奥深さと面白さに触れたのが、古書との関わりの最初でした。電子書籍などの台頭が示す利便性の追求は、社会の要請のなかで必要とされている傾向でもあり否定はしません。しかし、紙で作られた本や雑誌を手にとってみることは、これはこれで感慨深いことです。調べ物の作業を通して、本や雑誌を手にとることは当たり前のことになっているかもしれません。けれども一冊ごとに異なる装幀や微妙な紙質の違いは、発行された当時の社会状況についての知識を得ることにつながり、例えばそれが戦時に向かう苦難の時代の出版物であれば、さらに当時の人々の生活へと考えをめぐらすことにつながります。

 手触り、手に取ってみること、それは見えることから、見えない先へ、見えない奥へと思いを馳せることであり、意識しなければ忙しない日常のなかでは見落とされてしまいがちです。人と人との関わりにおいても、そうした思いを忘れずに過ごしていくことは、目まぐるしく変化するこの時代だからこそ必要ではないでしょうか。
 


   


                 



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