白百合について

学長室の窓から No.33

2022年5月23日

学長室の窓から愛をさけぶ?                 
                                           白百合女子大学
                                           副学長 海老根 龍介

20224月より副学長に就任しました海老根龍介です。教務・国際・質保証・研究振興・危機管理を担当しますが、扱う領域の広さに比して、自らの知識や経験、能力の狭さ・少なさに忸怩たる思いをすることも多く、いまは教職員の皆さまの助けをいただきながら、早くしっかりと責任を全うできるよう、勉強を重ねているところです。

このコラムも昨年度までホームページのトップに更新情報が載るたびに、すぐに拝読し楽しんでいたので、書かなければならないことは分かっていました。しかしいざ取りかかると、何を書いてよいものやらさっぱり分からず、頭を悩ませているうちに、「学長室の窓から」というタイトルにはどんな言葉が続くのかが、妙に気になり始めました。副学長になってはみたものの、これから私は学長室の窓からいったい何をするのでしょうか?

「学長室」がどこにあるのか、ご存じですか?専任の教職員であれば、さすがにお分かりのはずですが、学生の皆さんで知らない人は、実は少なくないと思います。本館正面玄関を入ってすぐの階段を2階まであがると、吹き抜けを挟んですぐ正面にあります。このあたりは独特の静けさが漂う空間で、私が学生だったとしても、「ここが学長室か」と感心する前に、とにかく早く通り過ぎたい気持ちになるでしょう。そんな緊張感ある場所に位置する学長室ですが、ひとたび中に入れば雰囲気は変わり、穏やかな表情を絶やさない学長の高山貞美先生が、多岐にわたるお仕事をなさったり、人と相談事をなさったりしています。部屋は中庭のヒマラヤ杉に面していて、窓からは豊かな自然が見せる四季折々の素敵な表情の中を、学生の皆さんが連れだって楽しそうに通ってくる姿がよく見えます。高山先生はこの恵まれた環境を守るために毎日心をくだかれ、私たち副学長をはじめとする学長室のメンバーも、時おり一緒に窓の外をながめながら、そのお手伝いをしているというわけです。(ちなみにふだん私たち副学長は学長室にはいません。学長との打ち合わせなどで入ることがあるだけです。)
学生の皆さんのそんな溌溂とした姿は、私たちにとって大きな励みであるにちがいないのですが、しかし「窓からながめる」というのは、思えば一方通行的な行為です。私の専門はフランス文学ですが、日本でも有名な19世紀の詩人シャルル・ボードレールの散文詩「窓」は、次のような一文ではじまっていて考えさせられます。

  開いている窓を通して外から見る者は、閉ざされた窓を見る者ほどに多くを決して見ない。

窓が開いていると家の中は外から丸見えですが、閉まっていれば家の中はガラス越しに蠟燭の光でぼんやりとしか見えない。しかし見えない分、そこでどんな人生が営まれているか、人はあれこれ想像して楽しむことができるというのです。他人の家の中を窓からのぞき込むなんてはしたない、下手をしたら犯罪ではないか、との当然のつっこみはとりあえず措いておいて、ありのままの現実などつまらないもので、想像力のフィルターを通して見えるものにこそ魅力はあるのだという考え方に、ボードレール流の悲観主義があらわれています。
私たちはボードレールと一緒になって現実を悲観する必要などありませんし、事実、学長室の窓から見える景色は、蝋燭の光がぼんやり映る薄暗い室内とまったく異なる、鮮やかな魅力に溢れています。しかしかといって、これが想像力の介在の余地のない、ありのままの現実とはいえないのも、またたしかなことでしょう。友だちと楽しげに歩いている学生は、実は心に人にいえない悩みを抱えているかもしれませんし、下を向きつまらなそうにひとり足早に家路を急いでいるように見える学生も、内心では大学での学びが楽しくて仕方ないのかもしれません。窓から外を観察して分かることなどたかが知れていて、それもしばしば見る側の勝手な思いこみにすぎないわけで、外の世界の実際を知るには、こちらからも何らかの働きかけをし、双方向的な関係を築く必要があると思うのです。

ながめるだけで不十分なら、私たちに何ができるでしょうか?窓から手をふってみる?実際、通勤時に私が正門から本館に向かって歩いていてふと見上げると、3階のフランス語フランス研究室の窓のそばの同僚や助手さんたちと目が合って、笑顔で手をふってくれることがあり、そんなときはいつも大変うれしく心温まる気分になります。でも同僚や助手さんたちが私に手をふってくれるのも、私が自分に向けてのものと分かるのも、一緒に仕事をしたり、ときに雑談をしたりという日常の積み重ねがあってのことです。いま学長室の窓から、私たち副学長はともかく、高山学長が笑顔で手をふっている姿を想像すると、不思議なほど似合っていてありがたみさえ覚えますが、道行く学生にとってその笑顔が自分に向けられていると感じられるかは別問題で、周囲に誰か親しい人でも歩いているのだろうと考え、手をふり返そうとはしてくれないかもしれません。
ならばもっと積極的に、学長室の窓から「愛をさけべ」ばいいでしょうか?カトリックの大学である白百合にとって、「愛」はたしかに根幹にかかわる重要な概念です。とはいえ、いくら必死にさけんだとしても、聞く人の心に響かなければ、それはコミュニケーションとはいえません。ずいぶん前にテレビのバラエティ番組で、学校の屋上から生徒の誰かが思いのたけを大声でさけび、他の生徒たちが喝采を送ったり、ときに何かを叫び返したりする企画がありました。言いたいことのある人が堂々とそれを主張し、聞く側みんなが受け止めることで、学校全体を活性化させようという、ユーモアあふれる人気企画です。ただこれはテレビ番組の力を借りて、学校をより楽しい場所にするために、友だちが何かを主張するならそれを聞こうという姿勢の共有があって、はじめて成り立つやり取りでした。なんの準備もないところで、部屋の窓や屋上から誰かがいきなり何かをまくしたてたら、多くの人はなるべくそちらを見ないようにして、そそくさとその場を立ち去るのが関の山、という気がします。

白百合女子大学は、学生数が2000人にも満たない小さな大学です。そんな小規模大学の強みは、大学が学生や教職員の皆さんに思い考えていることを伝え、学生や教職員の皆さんの思い考えていることを受け止める、ダイナミックな双方向性を築きやすい点にあると私は思っています。私たちは学長室の窓から外をただながめるのではなく、ときには手をふったり、何かをさけんだりして、学生や教職員の皆さんに積極的に働きかけていくべきでしょうし、昨年度まで高山学長やお2人の副学長が、実際そのようになさってきたことを私は知っています。こうした働きかけを受け継いでいくためにも、教育や学生生活、あるいは各部署での仕事の現場に積極的に赴いて、ともに語りあい考えあう風とおしのよい雰囲気を醸成し、大学をよりよいものにしていく意欲を、皆さんと共有したいと願わずにはいられません。私などにそれができるのか、自らの視野の狭さや経験の不足、力量の乏しさに日々落ちこみながら、副学長という慣れない仕事に必死に取り組んでいるというのが、目下の偽らざる実感です。
最後に野暮を承知で申し添えますが、学長室の窓から手をふる、愛をさけぶというのは、もちろんものの喩えです。高山先生や私たち副学長が、2階の窓から本当に手をふったり、何かを大声でさけんだりするキャンペーンをはじめるわけではありませんので、どうぞご心配のないよう。


 
中庭から見上げた学長室      学長室前の静かな廊下

 

 

 

 


                 



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