白百合について

学長室の窓から No.12を掲載しました

2020年10月26日

徒然草・友人・大学生活


白百合女子大学
  副学長 伊東 玉美

 授業は遠隔、仕事はテレワークとなると、対面のつながりは希薄にならざるを得ず、物足りなかったり不安だったりするのは大方の傾向でしょう。ただし、何事にも悪いことばかりがあるのではなく、本当は大勢と如才なく付き合うのが苦手、という人にとっては、周囲と自分との距離を保ちやすいコロナ下の人間関係には、ありがたい部分もあるかも知れません。
 またしても『徒然草』の、第十二段には、有名な友人論が展開されており、こうした人間関係の機微について触れられています。

同じ心ならん人としめやかに物語して、をかしきことも、世のはかなきことも、うらなく言ひ慰まんこそうれしかるべきに、さる人あるまじけれど、つゆ違はざらんと向ひゐたらんは、ただひとりある心地やせん。

同じ考え方の人とゆっくり話をして、風情のあることだの、世間のちょっとしたことだの、心ゆくまで語り合って心をなぐさめられたら嬉しいに違いないものの、そんな人はいるはずもない。この先の部分は、解釈が分かれています。
 それどころか少しも意見を違わせまいと相手に合わせて向かいあっているのでは、一人でいるよりいっそう孤独だ。
 もう一つの解釈は、全く自分の意見と変わらない、気持ちがぴったり合うような人と向かい合っているのでは、二人いる意味がない。
 文法上も、これ以降の文脈からも、どちらの解釈が正しいと決めかねます。「つゆ違はざらん」の部分を「少しも意見を違わせまい」と「意思」としてとるか、「つゆ違はざらん(人)」と、後ろに名詞が略されているととるかで解釈が変わってくるのです。
 この後、第十二段は、お互いの言い分をよく聞き、なるほどと手応えのあるやりとりもする一方、少し違うところがあり、わたしはそうは思わない、などと言い争ってみたり、だからこうなんだ、などと強めに言ってみたりできればこそ、人生の無聊も慰められようが、実際には、ちょっとしたことでもいちいち意見の合わない人といたなら、表面的な付き合いをする分にはいいが、「まめやかの心の友」にはとてもなれないだろうことが切ない、と続きます。
 ところで、これが仕事での付き合いとなると話はやや複雑です。自分の言うことをすんなり認めてくれる環境は心地よいものですが、自分に足りないところを誰も指摘してくれないのでは、それこそ複数でいる意味がありません。また、上役と「つゆ違はざらん」とし、専ら「心の友」になろうとする姿勢の人ばかりでは、組織としてよりよい選択が望めません。とはいえ、上役も人間ですから、後年楊貴妃に耽溺したことで有名な玄宗皇帝の若い頃のように、毎日すぐれた臣下から諫められてばかりで、ずっと痩せていた、というのも大変です。
 
 さて兼好は、第十二段でこんな友人論を展開した後、どう語っていくかというと、次の段では、結局、古典とされる名著の作者だけが自分を裏切らない。「見ぬ世の人を友とする」のが一番だ、と言って、生身の人間関係よりも一人での読書を選びます。兼好がこういう小結論に達したのも、同じ意見の人同士でないと、結局は心の友にはなれないが、さりとて自分に都合のよい意見の人同士で凝り固まっていたい、というわけにもいかないとの、ジレンマからだったのかも知れません。
 
 しかし兼好も、筆が乗って来た第百十七段の時点では、悪い友を七つ挙げ、よき友を三つ挙げています。よき友とは「一つには物くるる友、二つには医師、三つには智恵ある友」だそうです。具体的に自分に何かを与えてくれるのがよい友だ、ということなのですね。現金でちゃっかりしている気もしますが、現代の大学に求められているのは、たとえばこの第百十七段の「よき友」のような、学生の皆さんに何かを具体的に提供できる体制です。
 「心の友」と何気なく集う場、一見無駄なことを「見ぬ世の友」と差し向かいで考える時間、そういうものを提供できることが、一昔前の大学には本質的に求められてきましたが、現代の潮流は違います。投資に見合う具体的な何かを得られた実感を提供せねばなりません。
 その上、今般のコロナ禍で、大学生活に求められているものが、もう一段、新たに問われています。日々の成果というのでは測り切れない、何気ない日常のありがたみは、私たちがこの間、感じてきたことでもあります
 このコロナ禍を新たなチャンスと捉え、学生の皆さんが必要だと感じるもの、大学側が必要だと考えるもの、それらを発信し合い、日々新たな白百合女子大学を目指して挑戦を続けたいと思います。

  

 



                          
             
  

Page Top