森の小道
  
ようこそおいで下さいました
今日は田畑邦治がご案内します。

 愛の法で生きる

 社会には必ず「法(律)」があって、それによって秩序が守られます。法が最低限の道徳とも言われるゆえんです。今わたしたちの世界では、この意味での「法」が遵守されていないことは明らかですが、問題はもっと深刻ではないでしょうか。つまり国が作った法(いわゆる実定法)が破られているというだけではなく、もっと人間にとってより根本的な「法」や「条理」が忘れられているのではないかと思います。古人が「お天道様」とか「天地神明」「正道」といった言葉で大切にしていたもの、それに反するなら社会もおのれも立ちゆかないものを忘却しているのです。イエスは、福音書の中で「不法がはびこり、愛が冷える」(マタイ2412)と預言していますが、まさにそうした事態に立ち至っているのです。

人間が作った法は時には為政者の都合のためのもので、悪法もしばしば見られるところです。その意味では、法の遵守は必ずしも絶対的なものではありませんが、後のほうの意味での法は、人間が人間であるために不可欠な法であり、これを無視するなら「人でなし」になるようなものです。キリスト教では、これを「神のおきて(掟)」と言い、仏教では「法」(ダルマ)「仏法」と言います。

ところで、キリスト教には沢山の神の掟があって、これでは身がもたない、と思っている人は少なくないのですが、これは大いなる誤解です。厳密にイエスに戻って言えば、掟はたった一つです。

 イエスは最後の晩餐の席でその一つの決定的な掟を与えます。

「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ福音書1334-35、参照15121517)。

 このひじょうに具体的で奥深い掟は旧約聖書で命じられてきた「神への愛」と「隣人への愛」を否定するものではなく、むしろ一つのものに集約したものと思われます。つまり、イエスの愛はすべてを与え尽くす神の愛であったから、イエスのように愛するとは、神の愛をもって互いに愛し合うということを意味しています。そして、それこそが隣人愛の完成であり、神への愛になるのではないでしょうか。

 もちろんこの掟はたいへん過大な要求とも思われますが、「わたしがあなたがたを愛したように」というところを信じ受け取ることによって、実現が可能になるのだとイエスはおっしゃっているのではないかと思います。

 ヨハネ福音書と同じ著者によると思われる『第一ヨハネの手紙』でも、この掟が強調され、その上で、「わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです」(314)と断言されています。

 イエスの愛の掟(法)は、これによって私たちの(生物的な生死にとどまらない)本当の生死が決定するほどに根源的な法なのです。「愛が冷えている」時代だからこそ、この「唯一の法」にしっかりと目を注ぎ、実行するようにつとめたいものです。