ショーヴェ師が始めようとする仕事は、産みの苦しみを伴うもの
であった。
当時は教師という身分も確立されておらず、学校の教師という
仕事は低く見られていた。
村人の中には、師が高邁な理想に向けて奔走しているのをいぶかり、自分たちがますます協力を迫られ、取り立てられることを頑なに拒もうとする者もいた。
師は出生地とは異なる環境であることを承知しながらも、
冷涼なボース地方は、人びとの性格までも頑固にするほど
厳しいことを改めて知ることになる。
師が村の教会に着任後まもなく教会の土地を借り、
構想の実現に確かな一歩を踏み出したが、
これに弾みをつけるような出来事があった。
1698年12月13日、ルイ14世は庶民の普通教育の
充実強化を命じた重大な勅令を発布したのである。
「国内のすべての子どもたち、特にその父母がいわゆる改革派の信者であったものの子どもを教育するために、・・・全教区内にできる限り多数の男・女教員をおくことを望む・・・なお、資金が全くない地域においては、男子教員のために150リーブル、女子教員のために100リーブルの額まで、全住民の生活費から取り立てることができる。」
記録によると、ルヴェヴィルの教会の正門前では、日曜日の荘厳ミサが終わったときに学校の先生のための家の建築問題で、教区民集会が次つぎに開かれていたことがわかる。
いちばん代表的で効果があったと思われるのは1700年5月9日の集会で、村人は皆一致して製粉所の「小さな家屋」付の土地を主任司祭ショーヴェ師に売ることを承知した。
師は教区民の同意を得て、そこにもう一部屋増築した。
その家こそが、シャルトル聖パウロ修道女会の最初の修道院で
あり、シャルトル聖パウロ修道女会の最初の学校が開かれた、
まさに “揺籃の家” Le Berceau である。
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最初の修道院 “揺籃の家”

“揺籃の家”の地下室
ここで、聖パウロ修道女会の最初の学校が
始められた。
冷涼なこの地方ではどの家にも、
寒さを避けるために、
このような地下室が見られる。 |

娘たちに話し、教えるショーヴェ神父
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