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 シャルトル聖パウロ修道女会 (2)
共同創立者と最初の娘たち: 共同創立者 マリ・アンヌ・ドゥ・ティイ Marie-Anne de Tilly

最初の4人の娘たち

ショーヴェ師が司祭的熱意を持って村の子どもたちの知的水準を高めて、神をよりよく知るように、
また病む人びとへの奉仕をする隣人愛の実践グループを、と望んでいたとき、
最初に協力を申し出たのは、身分の異なった4人の娘たちであった。
ある者は貧しい家庭に育ち、他のものは高貴な家柄の出で、高い教育を受けていた。
 マリ・ミショー Marie Micheau、
 バルブ・フコー Barbe Foucauld、
 マリ・アンヌ・ドゥ・ティイ Marie-Anne de Tilly、
 マリ・テレーズ・ドュ・トロンシェ Marie-Thérèse du Tronchay
であった。

ショーヴェ師が買い取った家は、ある確かな資料に従えば「家屋の一部分が破損しかかっている」ほど痛ましいあばら屋であった。いかに清貧ときびしい勤労とを愛するショーヴェ師や娘たちであっても、これでは折角の目的が達せられなかった。
そこでショーヴェ師は、直ちに修理にとりかかり、二、三の必要な増築を完成し、さらに2年の間に、本格的改築を終了して、彼女たちの活動の拠点を整えた。

ショーヴェ師は早速無料学校を開いて、娘たちの働きにゆだねた。そこで、彼女たちは幼い子どもたちには読み書きを教え、公教要理を説き、上級の娘たちには、それに加えて裁縫・編み物・洗濯・アイロンかけ、糸紡ぎなどの技芸や、近い将来に必要な主婦や母としての仕事の手ほどきをした。

ショーヴェ師の目標は、もう一つの分野にも据えられていた。
それは、熱いスープと薬を持って貧しい病人を見舞い、彼らに愛の手をのべることであった。
ボース地方の冬は厳しく、伝染病と貧困にあえぐ教区民たちは、自家の病人に十分な食事をとらせる余裕さえなかった。娘たちは子どもたちへの日課を終えると、みずからの手で心をこめてスープを作り、おのおの分担して病家訪問に出かけた。
彼女たちの愛の奉仕は沈黙のうちにつつましく、ほほえみをもって続けられていった。
だが、彼女たちは日々の生活を自分たちの力で支えねばならなかった。ショーヴェ師も娘たちの住居と事業のための建物を整えたものの、生計をまかなってやるだけの資力はなかった。
そこで、彼女たちは終日の激務が果ててから、ロザリオをとなえ、霊的読書に耳を傾けながら、自分らの生活のために刺繍や他の手仕事を夜深くまで続けた。
その勤労から得たわずかな報酬と、ショーヴェ師から譲与された麦4スティエ(1スティエは156リットル)の定期所得と、仲間の1人マリ・アンヌ・ドゥ・ティイの12リーブル(フラン)の年金、これが彼女たちの全収入であった。


共同創立者 マリ・アンヌ・ドゥ・ティイ

4人の娘の中のひとりマリ・アンヌ・ドゥ・ティイは貴族の娘であり、当時継母の家に住んでいた。
毎朝のミサに参加するマリ・アンヌが、愛と犠牲の精神に富んだ熱心な女性であることを師は見抜いていた。

マリ・アンヌは、アレーヌの教会で1665年3月8日に受洗して
いる。父ルイ・ドゥ・ティイは貴族の称号を持ってはいたが
所有地も持たず貧しかった。
母アンヌ・ドゥ・フェニエールはボース地方の旧家、アレーヌ領主のただ一人の相続人であった。

マリ・アンヌは13人兄弟の3番目として生まれた。
13歳で母を失い、その時から彼女は母親代わりになって
弟妹の世話をすることになった。
1681年に父が再婚した時には5人しか生存していない。
末娘が25歳になって成人すると、義母は予定通りに
自分所有のアボンヴィルの館へと移転した。
マリ・アンヌは不本意ながら、ルヴェヴィルから1kmほど離れたこのアボンヴィルに義母たちと一緒に移り住むこととなった。
それは、ちょうどショーヴェ師がルヴェヴィルに赴任してきた
1694年のことであった。

マリ・アンヌはこの家で忠実に父の財産を管理し、相談相手になった。彼女は当時グレーの地味な服を着用し、教会活動を積極的に援助していたが、継母はこれを快く思わなかった。
経済的援助を母方に頼っていた関係上、彼女の立場はますます苦しいものになっていった。

ショーヴェ師はマリ・アンヌのこうした状況を察知していた。
ショーヴェ師は教区民に公表した学校設立に向けて、粘り強く交渉を進めながら、一方で村の娘たちが将来学校の先生になれるように、その養成をマリ・アンヌに託した。
しかし継母はマリ・アンヌが村の娘たちと交流をもち、その集まりに出入りすることを好まなかったために、1701年には遂に家を去るように言われ、カトゥリヌ・ドゥ・ベルイという友人のもとに身を寄せることになった。

マリ・アンヌは、ショーヴェ師とともにかれの構想の実現のために初めから参与しながらも、家庭の事情からすぐにその中に身を投じることができなかった。
とはいえ、彼女こそ第一の共同創立者であった。


初代院長 マリ・ミショー と その死

ショーヴェ師が土地を買収し、家を準備したあと手掛けようとしていた仕事を託すべく選んだのは、17歳のマリ・ミショー である。身体はあまり丈夫ではなかったが頭脳明晰で信心深く、ショーヴェ師は学校の教師第1号として彼女にその責任を託した。
ショーヴェ師の提供した“揺籃の家”に最初に落ち着いたのは、院長に任命されたマリ・ミショーと19歳のバルブ・フコーで、すぐに他の娘たちが2人に合流した。

彼女たちはマリ・アンヌの指導と励ましを受けながら、少女たちを集め、読み書き、編み物を習わせ、キリストの教えを学ばせることを役目として励んだ。

マリ・ミショーは最初の院長として創業の重責を一身に負い、
その激務から体力を消耗し尽くし、1702年11月15日、
19歳の生涯を閉じた。
修道女の身分を与えることは避けたショーヴェ師であったが、
マリ・ミッショーの死亡証明書を認めながら、
「スール・マリ・ミショーは・・・.」と、あえて修道女を意味する
「スール」を冠してその名を記した。
しかし、彼は「スール」の部分に線を引き、抹消している。
ショーヴェ師の娘に対する思いがいかなるものであったかが偲ばれる。マリ・ミショーはショーヴェ神父によって、
ルヴェヴィルの教会内に葬られた。


第2代院長 マリ・アンヌ・ドゥ・ティイ と その死

マリ・ミショーが亡くなったので、
マリ・アンヌは恩人カトゥリヌの許を去って「学校の娘たち」と
一緒に生活を始め、そこの院長となった。
しかし、彼女は、
「私は4人の貧しい娘たちが読み書きに上達し、信仰心を深めることによって立派な教師になれるように努力しました。」と遺言書をのこして1703年9月28日に天国に旅立ってしまった。
38歳であったと、洗礼を受けた日付から推測される。

ショーヴェ師と共同創立者とされるマリ・アンヌの遺言書にはまた、「私は世間を去って教会の善と隣人の益のために神に身をささげます」という修道者そのものの言葉が残されている。

ショーヴェ師が期待した娘たちは、相次いで
天上の保護者となってしまった。

創立の正確な日付けもなく、共同体の名前も、
自分たちの住まいを選ぶこともなかった。
通称、「学校の娘たち」とも呼ばれたこの集まりは、
修道会という現在の概念からはほど遠い、
素朴で慎ましやかな創業であった。


マリ・アンヌ・ドゥ・ティイの生家(1)

マリ・アンヌ・ドゥ・ティイの生家(2)

 アレーヌの教会

アボンヴィルの館

アボンヴィルの館から毎日揺籃の家に通うマリ・アンヌ

少女たちに教えるマリ・アンヌ

マリ・ミショーとマリ・アンヌが埋葬されている
脇祭壇前で毎日祈る娘たち


 ルヴェヴィルの教会の脇祭壇


「一粒の麦は、地に落ちて・・・死ねば、多くの実を結ぶ。」

寒々としたルヴェヴィルの片隅につつましい若芽を出しはじめた4株の麦は、
実りの秋を待たずに手折られ、2本が取り残された。
だが、かつてイエス・キリストがパレスチナの人びとにむかって、
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12・24)
と仰せられたように、創立後まもなく相次いで2人の娘を失ったことは大きな痛手ではあったが、
そのころから多くの志願者が訪れて入会を願い出るようになった。
真理にいます神のみことばは、こうして日ましに実証されていった。

そして、会員増加の結果、娘たちの住居を拡張する必要がおこってきた。
ショーヴェ師は、最初の家屋に隣接する建物を借り受け、そこを彼女たちの居所と定めた。
彼女たちは寒い冬の間、この地方の習慣に従って酒倉に使われる地下室に集まり、
そこで手仕事や共同の祈りの時を過ごした。
ボース地方は山林に恵まれないので暖炉にたく薪が不足しがちであったので、
1本でも節約しようと考えたからであった。
この貧しい家は、時代の流れの中で幾度か手を加えられたとはいえ、
今も往時の姿をとどめている質素な穴倉である。

ショーヴェ師の腐心の努力と、娘たちの打算を越えた奉仕の成功には、
陰に陽に援助を惜しまなかった人びとの協力もあずかって力があった。
たとえば、マリ・アンヌ・ドゥ・ティイがその遺言書に「学校の恩人」としてその名をしるしている
カトリーヌ・ドゥ・ベルイもその1人であった。


ダヴィド David 師の手紙

ダヴィド師は、1948年1月7日付で、シャルトル聖パウロ修道女会総長に宛てて以下のようにしたためている。

貴修道会の創立史は全く超自然的で実に美しいものです。
1年の間に2名も帰天し、また創立者自身もその創設に全財産をつぎこみ、健康までも捧げつくし、
欠乏と過労の犠牲となって、病床についてわずか1週間たらずで、46歳で亡くなられました。
創立者は、修道生活についてこれまでとは全く異なる新しい構想をいだき、
厳しい清貧の遵守を規則としました。この理由で、生まれたばかりの修道会は、
当時の保守的な人びとから嘲笑・悪意・中傷のかずかずを容赦なく浴びせられたのでした。
しかし、そこには、将来りっぱな修道会に成長するための大切な要素、
すなわち福音的兄弟愛のすべてが秘められております。



ダヴィド師


ルイ・ダヴィド師は、1877年3月24日、ヴァンデ地方のモンテギュに生まれる。
1905年、シャルトルの小神学校に入学。シャルトルのノートル・ダム大聖堂の聖歌隊に入り、
また、シャルトル聖パウロ修道女会の母院で5年間、ミサの侍者をつとめている。
1922年6月22日、司祭に叙階され、1927年7月2日、ルヴェヴィル・ラ・シュナールの主任司祭に任命される。

ルヴェヴィルの司祭館に200年来眠っていた修道会創立にまつわる資料を発見し、好奇心をかきたてられ、
丹念に根気強く研究を続けて、17世紀末のシャルトル聖パウロ修道女会創立の歴史研究を進めた。

師は、この研究を進めるにつれてますます熱意を燃やし、小型ノート6冊にメモを収めた。
ボース地区の公正証書や教会の記録簿等の困難な解読作業にあたった。
生来洞察力に恵まれていた師は、記述文や契約書の署名の位置などから推測できる状況を細かくメモしている。

研究を深めるにつれて、創立者ショーヴェ師のすばらしい司祭的精神と、
マリ・アンヌ・ドゥ・ティイの清く高貴な姿に出会って心を打たれた。
創立に伴う試練は、ショーヴェ師の魂の偉大さと忍耐強さをうかがわせ、
また、自分に向けられる侮辱をゆるし、生命までも捧げつくしたマリ・アンヌの姿勢は、その英雄的な愛を証ししていたと。

ダヴィド師のルヴェヴィル在任は12年間であったが、
この研究は、シャルトルのボン・スクール病院で亡くなるまで続けられた。

  ※ シャルトル聖パウロ修道女会は、ダヴィド師の貴重な研究資料をまとめて、
     1986年4月、『シャルトル聖パウロ修道女会創立史』 として発表した。

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4. 日本における歩み

 1) 来日の背景
 2) 日本での始動/函館
 3) 東 京
 4) 新 潟
 5) 仙 台
 6) 盛 岡
 7) 八 代
 8) 片 瀬
 9) 強 羅
10) 鶴見・山形・他
5. 写真で辿るルーツ

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4) シャルトル大聖堂
5) シャルトルの母院
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