4人の娘の中のひとりマリ・アンヌ・ドゥ・ティイは貴族の娘であり、当時継母の家に住んでいた。
毎朝のミサに参加するマリ・アンヌが、愛と犠牲の精神に富んだ熱心な女性であることを師は見抜いていた。
マリ・アンヌは、アレーヌの教会で1665年3月8日に受洗して
いる。父ルイ・ドゥ・ティイは貴族の称号を持ってはいたが
所有地も持たず貧しかった。
母アンヌ・ドゥ・フェニエールはボース地方の旧家、アレーヌ領主のただ一人の相続人であった。
マリ・アンヌは13人兄弟の3番目として生まれた。
13歳で母を失い、その時から彼女は母親代わりになって
弟妹の世話をすることになった。
1681年に父が再婚した時には5人しか生存していない。
末娘が25歳になって成人すると、義母は予定通りに
自分所有のアボンヴィルの館へと移転した。
マリ・アンヌは不本意ながら、ルヴェヴィルから1kmほど離れたこのアボンヴィルに義母たちと一緒に移り住むこととなった。
それは、ちょうどショーヴェ師がルヴェヴィルに赴任してきた
1694年のことであった。
マリ・アンヌはこの家で忠実に父の財産を管理し、相談相手になった。彼女は当時グレーの地味な服を着用し、教会活動を積極的に援助していたが、継母はこれを快く思わなかった。
経済的援助を母方に頼っていた関係上、彼女の立場はますます苦しいものになっていった。
ショーヴェ師はマリ・アンヌのこうした状況を察知していた。
ショーヴェ師は教区民に公表した学校設立に向けて、粘り強く交渉を進めながら、一方で村の娘たちが将来学校の先生になれるように、その養成をマリ・アンヌに託した。
しかし継母はマリ・アンヌが村の娘たちと交流をもち、その集まりに出入りすることを好まなかったために、1701年には遂に家を去るように言われ、カトゥリヌ・ドゥ・ベルイという友人のもとに身を寄せることになった。
マリ・アンヌは、ショーヴェ師とともにかれの構想の実現のために初めから参与しながらも、家庭の事情からすぐにその中に身を投じることができなかった。
とはいえ、彼女こそ第一の共同創立者であった。
ショーヴェ師が土地を買収し、家を準備したあと手掛けようとしていた仕事を託すべく選んだのは、17歳のマリ・ミショー である。身体はあまり丈夫ではなかったが頭脳明晰で信心深く、ショーヴェ師は学校の教師第1号として彼女にその責任を託した。
ショーヴェ師の提供した“揺籃の家”に最初に落ち着いたのは、院長に任命されたマリ・ミショーと19歳のバルブ・フコーで、すぐに他の娘たちが2人に合流した。
彼女たちはマリ・アンヌの指導と励ましを受けながら、少女たちを集め、読み書き、編み物を習わせ、キリストの教えを学ばせることを役目として励んだ。
マリ・ミショーは最初の院長として創業の重責を一身に負い、
その激務から体力を消耗し尽くし、1702年11月15日、
19歳の生涯を閉じた。
修道女の身分を与えることは避けたショーヴェ師であったが、
マリ・ミッショーの死亡証明書を認めながら、
「スール・マリ・ミショーは・・・.」と、あえて修道女を意味する
「スール」を冠してその名を記した。
しかし、彼は「スール」の部分に線を引き、抹消している。
ショーヴェ師の娘に対する思いがいかなるものであったかが偲ばれる。マリ・ミショーはショーヴェ神父によって、
ルヴェヴィルの教会内に葬られた。
第2代院長 マリ・アンヌ・ドゥ・ティイ と その死 |
マリ・ミショーが亡くなったので、
マリ・アンヌは恩人カトゥリヌの許を去って「学校の娘たち」と
一緒に生活を始め、そこの院長となった。
しかし、彼女は、
「私は4人の貧しい娘たちが読み書きに上達し、信仰心を深めることによって立派な教師になれるように努力しました。」と遺言書をのこして1703年9月28日に天国に旅立ってしまった。
38歳であったと、洗礼を受けた日付から推測される。
ショーヴェ師と共同創立者とされるマリ・アンヌの遺言書にはまた、「私は世間を去って教会の善と隣人の益のために神に身をささげます」という修道者そのものの言葉が残されている。
ショーヴェ師が期待した娘たちは、相次いで
天上の保護者となってしまった。
創立の正確な日付けもなく、共同体の名前も、
自分たちの住まいを選ぶこともなかった。
通称、「学校の娘たち」とも呼ばれたこの集まりは、
修道会という現在の概念からはほど遠い、
素朴で慎ましやかな創業であった。
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