シャルトル
聖パウロ修道女会

揺籃の家
共同創立者
シャルトルへ
海外宣教
会の精神
修道服の変遷

» サイトマップ・参考文献
   シャルトル聖パウロ修道女会 (3)
シャルトルへ à Chartres

志願者の増加と事業の発展

マリ・アンヌ・ドゥ・ティイの死後、院長としてマリ・テレーズ・ドュ・トロンシェが会の管理にあたった。
この間の細かいことについては明らかではないが、ルヴェヴィルの一隅に始められたささやかな事業が
発展し続けてきたことと、ショーヴェ師が堅実にしかも活発に本会の特質ともいうべき実践的愛を鼓吹し、
会員の指導に挺身してやまなかったことは事実であった。
そうした事情は、1705年に14名の志願者が入会を申し出たことによっても容易にうなずかれる。

やがて、村の人たちは彼女たちを「学校の娘たち」と呼ぶようになった。
そして、その感嘆すべき愛徳の噂は、ほどなくルヴェヴィルの小教区を越えて波紋のように村から村へと広まり、
その反響はすぐルヴェヴィルへもどって来た。
1707年、シャルトルからほど遠いシャトヌフ・アン・ティムレから学校と病院経営にあたる娘たちの派遣方を
依頼された。ショーヴェ師は喜んでこの招きに応じ、時をおかず2人の娘を送った。
これこそ、彼女たちが神の愛の使徒としてルヴェヴィルから外へ踏み出した初の歩みであった。


シャルトル司教の招き

一方、シャルトル司教パウロ・ゴデ・デ・マレ師も、かなり以前からルヴェヴィルの小さな集団の活躍と目覚ましい発展ぶりを愛情と理解あるまなざしをもって見守っていた。そして1708年、
パウロ・ゴデ・デ・マレ司教は贈与された多額の財産をもって、シャルトル市外のサン・モーリスに庭園・ぶどう園付きの建物を買い求め、ここへ「学校の娘たち」を招き寄せた。
ショーヴェ師がボースの一寒村に人知れず蒔いた小さな種に、神のみ摂理は、今こそ輝かしい芽生えと成長と、さらに、ゆたかな結実を保証する開花の時を与えられたのであった。

シャルトルへ出発する日が来た。
留まる者も行く者も涙なしにはいられなかった。
ことに、この地を去ってシャルトルに赴く娘たちにとっては、数々の喜びと悲しみ、慰めと苦しみの思い出をつつむ村、初代および第2代の院長が安らかに眠るルヴェヴィルとの別れはつらかった。

シャルトル大聖堂と周辺の町並み


パウロ・ゴデ・デ・マレ司教

ルヴェヴィルから引っ越したシャルトルの
サン・モーリスの修道院
「この世を捨て、神に身を捧げ、また教会と隣人との益のために献身すること・・・」
この記憶も生々しいマリ・アンヌ・ドゥ・ティイの力強い無言のはげましと呼びかけに勇気を得、
娘たちは霊的父ショーヴェ師の祝福を受けて旅立って行った。

ルヴェヴィルからシャルトルに移転して来た彼女たちは「学校の娘たち」とか、修院がサン・モーリスの教区に
あったので、「サン・モーリスの娘たち」とかいう呼び名で知られ、この名称は長い間愛用されていた。

シャルトルの司教は、この娘たちがルヴェヴィルの揺籃において正式の命名を受けていないのを残念に思った。そこで彼自身の守護の聖人でもあり、このつつましい会の精神をその活動とその生涯において最も完全に具備し実現した偉大な使徒聖パウロをその守護者として指定した。

「シャルトルの聖パウロの娘たち」 Les Filles de Saint-Paul de Chartres
これが彼女たちの新しい呼び名となった。

この移転により、ショーヴェ師の掲げた理想はより具体化されていくことになる。


霊的指導者 クロード・マレショー Claude Maréchaulx 師

パウロ・ゴデ・デ・マレ司教はまた、聖会法による霊的指導者として、
学識と聖徳を兼ね備えた神学博士クロード・マレショー Claude Maréchaulx 師を任命した。
クロード・マレショー師は、聖パウロのような使徒的熱誠にたぎる血潮の中に峻厳な修道士の精神を堅持した
敬虔な司祭であった。

あわただしい新設の年も明けた1709年、シャルトルの司教パウロ・ゴデ・デ・マレ師は、
その由緒あるカテドラルの陰にみずから移し育てた修道会が、師の信頼と期待にふさわしく
成長し花咲くことを確信し、讃美の祈りを捧げつつ安らかに天国へ逝いた。

ルヴェヴィルにとどまって遠くから会の成り行きを見守っていたショーヴェ師は、「サン・モーリスの娘たち」が
適切な指導者のもとに、創立当初のつつましさを失わず、同一の精神を生き抜いていることを知り、
また、その思い設けぬ発展の跡を見て心から喜んでいた。
ショーヴェ師は、みずからの貧しい創業に対する神の恵みと人びとの好意とに感謝し、
すべての配慮を全能なる神のみ手にゆだね、1710年6月21日、46歳の生涯を苦しみもなく閉じた。

「学校の娘たち」は、この相次ぐ試練にも屈せず、シャルトルの新司教の慈父的愛情と
マレショー師の賢明、堅固な庇護のもとに着実な歩みを続けていった。

ショーヴェ師の志を引き継ぎ、マレショー師は、ショーヴェ師が作成途中であった規則書を完成させ、
「愛徳の娘たちの共同体」にこれ以降の名称を付して「シャルトル聖モーリス修道女会会則の草案」を
書き与えた。
韻を踏んだ文体は、厳しい規則をこころに染みとおらせるのに大いに効果的であったと思われる。
ショーヴェ師が避けてあえて書くことをしなかった「スール」という文字は、
マレショー師の30章からなる「行為を良くするための心得」第1章のはじめから記されている。

マレショー師が娘たちを「スール」と呼んではばからないことをショーヴェ師が生前に知ったならば、
その喜びは計り知れないものであったはずである。

創設後まだ日も浅かった「聖パウロの娘たち」の歩みを、8年の永きにわたって、
会の生みの父にも劣らぬ慈愛を傾けて導いたマレショー師は、この共同体の精神と生き方を要約した標語
ともいうべき2つの言葉、「規則正しさ」「勤労」を愛し、実践するよう言い残して、
1716年7月2日、その聖なる魂を神のみ手にゆだねた。

この時、「聖パウロの娘たち」は、すでに10か所に愛徳奉仕の家を創設し、
病院・施療院・学校・養育院などを通して、貧者や病者への献身と、子どもたちの教育とに励んでいた。


フランス大革命とその後

1789年に革命が起こり、1792年8月18日には革命政府による「修道会廃止令」の発布によって、
1か月後には聖パウロ修道女会の財産を没収し、 不動産を差押える旨の令書が通達され、実施された。
10月1日には、即刻立ち退きを命ぜられた。
スールたちは、住む家を奪われ、各地に離散したが、その間、自分たちの清貧をもって他の極貧を助け、
病者を世話し、少数の子どもたちを集めては教えながら、時期の到来を待った。

1795年11月9日、将軍ナポレオン・ボナパルトはクーデターによって執政官政府を倒し、
フランスを支配するに至った。彼は、1801年、教皇ピオ七世との間に和親条約を締結した。
それにより、種々な制約下ではあったが、再びカトリック教会がその宗教的祭儀を行い、教会制度を設け、
修道会の復活を促すことができるようになった。
シャルトルでは、知事にレートル長官が就任し、賢明な施政によって廃墟の復興に尽力していた。
彼は、その管轄区内の各種の施設を巡察して、病院経営の欠陥と献身的な奉仕者の必要を痛感するとともに、聖パウロ修道女会を復旧させ、往時の社会事業を再び担当してもらいたいと考え、
当時の総長メール・マリ・ジョソームと交渉した。

メール・マリ・ジョソームは、この招きに応じ、1802年10月には、40余名の修道女を呼び集め、
1年後には100名の会員を数えるに至った。

知事は、もとドミニコ会の所有であったサン・ジャック街の住居を購入し、
聖パウロ修道女会に与えた。そこで、最低限度の修復を急いで、
1803年夏、スールたちは新しく入手した修道院に移り住んだ。

こここそ、現在のシャルトルの母院の前身であった。


 
現在、シャルトルの母院には、宣教地での活動を終えて来たスールたちも多く、
静かに祈りながら、世界中の愛する兄弟姉妹のために、祈り続けている。

» シャルトルの母院 (写真で辿るルーツ)

現在のシャルトルの母院
ドミニコ会時代の小さな聖堂が
今も残されている



創立者 ルイ・ショーヴェ師の遺言



ルイ・ショーヴェ師の遺言書
ルイ・ショーヴェ師の書き残したものは遺言以外には何一つない。
彼は口頭で教え、規則を必要とするなら書き留めるより、むしろ実行を旨として指導した。
したがって、今日まで、規則や講演集が残されたのはひとえにマレショー師のおかげである。

ショーヴェ師が自分のためと娘たちの行く末を案じ、早くに10か条からなる自筆の遺言書を認めておいた。その第6条には娘たちへの配慮がたくさん盛り込まれている。

マレショー師によってまとめられた会則の草案には、創立以来、口頭で導かれたショーヴェ師の理想と理念が反映されている。
ショーヴェ師は創立者としての権限と、ルヴェヴィルの主任司祭としての権限をどこにも残していない。

貧しい人びとのために全精力を傾けてひた走ってきたショーヴェ師は、
1710年6月21日、46歳で帰天した。

先に逝った姉妹たちの眠る聖堂に自らも埋葬されることを望まれ、直接の後継者となったマレショー師によって翌6月22日埋葬された。

ショーヴェ師の遺言は、「私がした普通の愛徳を貧しい人びとに対して続けていくように」との言葉で終えている。これが、今日35か国で活動している聖パウロ会のスール4000人の使命である。

[付記1]
2010年ショーヴェ神父没後300周年を期し、アヴィニョンの司教と
生まれ故郷ペルテュイの教会の人びとの招きに応えて、この年の10月、教会の近くにシャルトル聖パウロ修道女会の修道院が創設された。

このペルテュイの修道院に4人のスールが派遣されることになり、
その派遣式が9月28日、ローマ総本部の聖堂で行われた。
フィリピン人・フランス人・韓国人・ベトナム人の4人のスールで、
ショーヴェ師が集めた4人を想起させる。
ルヴェヴィルの一寒村から世界に枝をひろげた現在の実りを象徴するかのようである。

世界の各地で働いていたスールが、フランスに呼び戻されて、
今度は、創立者の生まれ故郷ペルテュイに「宣教」に赴くことになったのである。
[付記2]
ショーヴェ神父の没後300周年に合わせるかのように、マリ・アンヌ・ドゥ・ティイの家系に
司祭(ユーグ・ドゥ・ティイ司祭 Hurgues de Tilly)が
誕生し、シャルトルの修道院の聖堂で初ミサを捧げた。 

母院で初ミサを捧げるユーグ・ドゥ・ティイ神父



パウロ・ゴデ・デ・マレ司教に関する記述

< LES SOEURS DE SAINT-PAUL DE CHARTRES >
ANTOINE BERNARD,C.S.V.著


ゴデ・デ・マレ司教は自分の町にこの小さな修道女のグループを暖かく迎え入れた。
はじめてマリ・テレーズとその仲間たちに対面したとき、
司教はかの女たちに次のように話しかけられた。

「あなたたちはまだ名前をつけてもらっていないようですね。
私の名前をあげましょう。
これからは『聖パウロの娘たち』と呼ぶことにします。
これは偉大な使徒の名前です。聖パウロは
聖母マリアに次いで、あなたたちの守護者となります。
この偉大な名のもとで、
子どもたちとかわいそうな病人たちに奉仕し、
シャルトル司教区と、神さまが望まれるならば、
シャルトルを越えた場所で、たくさん良いことをしてください。」
(p.32)

ゴデ・デ・マレ司教は
1709年、61歳で死亡した。

亡くなる前に、生まれたばかりの会のために、
会則の草案(*)を作成する時間を持つことが
できた。
 (* :「シャルトル聖モーリス修道女会会則の草案」
    を指す)

作成に当っては、シャルトル司教座の
神学博士クロード・マレショー師に手助けを
求めている。


(p.34)


シャルトル


1世紀の古い伝説によると、シャルトルではキリスト教が伝播する前から処女懐胎が信じられていた。
2000年間、人びとの汗と手で建てられた聖堂へと、聖母マリアへの厚い信仰に燃えて徒歩で巡礼してくる人びとは途絶えることがない。
巡礼の道は長い。しかし、小麦畑の地平線に目印となって人びとを導いてくれる大聖堂の尖塔、人工の丘の上に建てられた大聖堂の扉は巡礼者たちに荘厳な姿で開かれている。

栄光のキリストが刻まれている「諸王の門」は人びとを聖堂の中へと招く。質素でありながらも明るく輝いている外観に圧倒されながら聖堂内に入ると、なんという薄暗さ。ひんやりと涼しい。

シャルトルブルーとして名高い「美しいガラスの窓の聖母」のステンドグラスはやわらかいブルーの光を発して心に差し込んでくる。聖母は、ひざの上のキリストを訪れる人びとに差し出している。

左側の入り口の近くの「柱の聖母」と呼ばれる聖母子像は、希望と助けと光を待つ人びとのあつい眼差しを受け、やさしい微笑を返している。

シャルトルは巡礼地として、また、聖母崇敬の対象として人びとを魅了している。

» シャルトル大聖堂 (写真で辿るルーツ)

聖堂内部

美しいガラスの窓の聖母

柱の聖母

柱の聖母像の前で祈るスールたち

シャルトル - そこはフランスの歴史を力強く物語る地。 フランスは、国の特別な保護者としてマリアを選んだのだから。
    
つ ぎ »»»  4) 会の発展と海外宣教 
   《 メニュー 》 » ホーム
1. 発祥の地

ルヴェヴィル・ラ・シュナール
2. 創立者

ルイ・ショーヴェ神父
3. 修道会

1) 揺籃の家
2) 共同創立者
3) シャルトルへ
4) 海外宣教
5) 会の精神
6) 修道服の変遷
4. 日本における歩み

 1) 来日の背景
 2) 日本での始動/函館
 3) 東 京
 4) 新 潟
 5) 仙 台
 6) 盛 岡
 7) 八 代
 8) 片 瀬
 9) 強 羅
10) 鶴見・山形・他
5. 写真で辿るルーツ

1) ボース地方
2) ルヴェヴィルの教会
3) 揺籃の家
4) シャルトル大聖堂
5) シャルトルの母院
▲ページトップへ