ルヴェヴィルの小教区は数年来、主任司祭の交替が相次ぎ、見捨てられたも同然の状態にあったので、献身的で善良な人情の厚い、常住の司祭が期待されていた。
ルイ・ショーヴェ師が主任司祭としてこの村に着任したのは、1694年6月であった。
彼は1664年2月16日、南仏プロヴァンス地方のエックス教区にある小さな町ペルテュイ Pertuis (現在のアヴィニョン教区) に生まれ、翌日、聖ニコラ教会で受洗した。
父ノエル・ショーヴェは商人であった。母マルグリット・ド・ラ・フォレとの間には、9人の子どもがあり、ルイは7番目であった。記録には、ルイ、ジョゼフ、アントワーヌの3人の息子と2人の娘ジャンヌ、ジュヌヴィエーヴの名が見られる。
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ルイ・ショーヴェ師が受洗した聖ニコラ教会 (左:外観 右:内部) |
父ノエル・ショーヴェは裕福な商人で、羊毛の毛すき工、毛織物の織工でもあり、市で重要な立場にあった。彼はペルテュイの判事を勤め、次にサン・ジャック病院の責任者になり、サン・オノラ協会の責任者に選出され、サン・アントワヌとサン・ブレーズ協会の責任者で、その他に今日の組合に匹敵する幾つかの協会の会員でもあった。
彼は子どもたちの将来のために、自宅の前の家を購入した。その上、彼は土地とペルテュイに点在するブドウ畑も持っていた。種々の資料から、この家族は子どもたちにはかなりの教育を与えるゆとりはあったようである。
ルイ・ショーヴェは、1685年11月、21歳のときに、司祭職を強く望んでペルテュイを離れた。その11月19日に、ノエル・ショーヴェ氏は息子ルイのために神学院の学費・寮費を負担するという保証書に署名している。(この書類は司祭職を志願する者に求められる費用を保証するために必要なものであった。)
ルイ・ショーヴェは、トレント公会議(1545年-1563年)後の重大な霊的刷新の時代に、
神学校に入学している。彼はフランス派の霊性を身につけ、蔵書からも分かるように、
当時としては教養の高い博学な人であった。
1688年3月13日、アヴィニョンの大司教の宮殿内聖堂において、アヴィニョンの大司教でシャルトル会修道士、アレクザンドル・ドゥ・モンテカティニ師によって叙階された。
ショーヴェ師は1690年8月から1692年1月まで、パリ近郊ヴァル・ドワーズ県のセルジの聖クリストフ教会で、1692年10月から1694年5月まではウール・エ・ロワールのシャンプロン・アン・ガティヌのサン・ソヴー教会で助任司祭として勤めていたことが教会の名簿に記録されている。
最後に1694年6月ルヴェヴィル・ラ・シュナールに着任した。
ショーヴェ師がルヴェヴィルに着任する以前のことについて、細かいことは分からない。
家族についての公的書類から神学博士であったことは確かであるが、
どこで学位取得を準備されたのかはわからない。
また、ローマの任命によって、故郷から遠く離れたシャルトル教区のルヴェヴィルに
赴任したが、その経緯についても詳らかではない。
しかし、師は妹ジュヌヴィエーヴを伴って着任しており、最初から全力をあげてこの村の人たちのために尽くそう、生涯を捧げよう、という意気込みであったことが感じられる。
師はシャルトル教区の司祭ではなかったので、10分の1税をはじめ、
司祭として得る収入をシャルトルの司教に納める義務はなく、
従って、それらを広く教会のために使用できた。
師がまず手掛けたのは、50年近く手入れもされず、崩壊寸前の状態にあった
司祭館の補修工事であった。
当時、この村に来た主任司祭のなかには、隣接する領主の館に数部屋を借りて
牧者の務めを果たす者もあり、好ましいことではなかった。
師は遺言書の中で、「私は着任早々、司祭館を自費で補修し、拡張もしました。
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