日本における歩み
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オズーフ司教がシャルトル聖パウロ修道女会修道女の派遣を依頼した当時の函館は、戸数約6,500戸、 人口は27,700人ほどであった。10年後の明治20年には、人口が50,000人を超えているのであるから、 いかに活気のある町であったかは想像に難くない。 発展途上にあった函館は、植民地的・開放的雰囲気をもった町であった。 開港により、いち早く文明開化の恩恵に浴した反面、風紀の乱れなど失なわれたものも多かったと思われる。 また、五稜郭戦争の脱走兵による放火のため872戸もの民家が焼失したこと、 このため、当時は捨て子が多かった。ともかく、函館は社会事業を必要とする町だったのである。 1878年、極東地区管区長メール・バンジャマンは日本に3人のスールを派遣した。 そのうちの2人は宣教地ホンコンからであり、もう1人はフランスを出てごく短期間南ベトナムに滞在した後、 日本へやってきたのであった。
木造の事務所を建てて働き始めた。 来日後まだ日も浅く、スールたちは今までの生活様式や、習慣、とくに言語の違いに驚嘆の目を放ちつつ、 それらの修得に余念がなかった。 そして遠い昔、ルヴェヴィルの村で4人の若い娘たちが、苦しむ人や病める人、 無知の中に放置された子女たちに愛の献身を思い立った時のあのつつましい奉仕の日々を、 ここでも積み重ねていけるように着々と準備を進めた。 スールたちが来函して3か月の後、メール・バンジャマンはサイゴンを発って函館のスールを訪れたが、 この時までに事業はささやかながら発足していた。 「一方には漁船が所せましと並んでいる美しい入り江が広がり、他方には人家にうめ尽された港町がございます。頭をめぐらしますと、ゆたかに生い茂った緑の森が山をかこんでおります。」 とメール・バンジャマンはその初印象の一端をシャルトルのメール・エリ・ジャレに書き送った。 一幅の絵のような景色の中に、スールたちの家は、2本のもみの木の間に2階建ての洋館造りの愛らしい姿を見せていた。住居のまわりには、草木が美しく咲き乱れた庭と、野菜が青々と生長した菜園があった。 町の人びとが地上の楽園かと見まちがうほど、そこは静かな理想境であった。 創設当初、修院の外観は人目をひきつけたほどエキゾチックな家造りであったが、まだ家具らしいものとてなく、 旅行かばんもあけたまま床の上に雑然と置く外はなかった。それに戸や窓も満足に閉まらなかった。 そこで、好奇心に駆られた人びとが、入れ代わり立ち代わりやって来ては見物していった。 1878年8月18日、メール・バンジャマンが初めて函館を訪れたとき、 4人目のスールを南ベトナムから連れてきた。スール・マリ・エリーズ Soeur Marie-Elise である。
スールたちの仕事は本格的に始められた。孤児院・授産所・施療院の開設である。 まず、8人の孤児を貰い受け、スール・マリ・エリーズがその養育にあたりつつ、小さな孤児院を開設した。 そのころの日本においては、この種の社会事業がほとんど顧みられていなかったので、 珍しい姿をした異国の婦人たちが、日本人の捨て子を集めて養っているという事実は、 すぐ狭い町の噂となり、さまざまな風評を受けた。
すでに孤児院・授産所を創設したスールたちは、小さい薬局を設けて施療院を始めた。 スール・マリ・オネジムがこれを担当し、彼女に尊敬と好意を持ち始めた町の人びとは、遠方からも訪ねてきて、 治療を受け、薬をもらって帰った。そして診療の親切さと医薬の効能がすばらしかったので、 10日間で患者は10人から25人に増した。 とくに、スール・マリ・オネジムが発案調合した軟膏は「ガンガン寺のヴィルジン様の膏薬」と呼び親しまれて、 求める人が僻地からもきた。
4人の日本人志願者をもって函館に修練院が開かれた。 その後1894(明治27)年、10人の娘たちが入会を希望し、ここに修練院が名実ともに正式の発足を実現した。 1897(明治30)年9月、学校はさらに校舎を大増築し、 小学校を独立させて「私立元町女子尋常高等小学校」と命名した。 翌年9月8日、文部大臣によって、聖パウロ修道女会経営の学校は正式の認可を与えられた。 これは、日本における外国人経営の学校中最初のものであったため、 生徒の数もとみに増加の一路をたどっていった。 さらに同年、本部と修練院とを首都東京に移転させ、管区長メール・マリ・オウグストは東京に移住した。 その後、日本管区本部としてのはなやかな地位を去ったものの、函館の施設は着実な歩みを進めていった。 1899(明治32)年7月には、年来の宿願かなって寄宿舎を開いた。 最初8人の生徒をいれたが、1年とたたぬうちに30人となった。 子どもたちは、朝な夕なスールたちとほぼ寝食をともにし、実生活のすみずみにまで浸透している 活きたカトリシズムを知らず知らずのうちに体得していった。 後に、寄宿舎にいた生徒や孤児院にいた子どもたちの中から12名の信者の教師が輩出し、 そのうち5名は修道生活への召命を感じて修道女となった。
函館の全事業は、神の豊かな祝福を受けて進展の一路を走り続けた。 1907(明治40)年8月25日の夜半、港の一角から燃えあがった火の手は、折からの強風にあおられて、 1時間のうちに函館の町を焦土と化した。
北海のかなたに位置する函館では、瞠目すべき事業の発展は見られなかったが、 沈黙の中に献身の日々が続けられていった。 そして資金の目当てがついた1950(昭和25)年の暮れからベビーホームが増築され、 年を追って、養護施設の3階建て屋根裏を4階建築にして子どもたちの寝室にあてたりして、 付属建物の拡張と充実につつましい展開をみせていった。 1980年(昭和55年)4月、100年余を過ごした元町から山の手へ移転し現在に至っている。 » 函館白百合学園 http://www.hakodate-shirayuri.ed.jp/ |
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