日本における歩み

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 ■日本における歩み(3) - 東 京

神田猿楽町に学校創設

北日本教区の司牧にあたっていたオズーフ司教は、東京築地の教会に居を定め、
条件付きの自由を最大限に駆使して、日夜布教活動の困難と戦いつつ、神のみ国の拡張に尽力していた。
1881(明治14)年、オズーフ司教は、
サイゴンに居住していた極東地区管区長メール・バンジャマンへ一書を送り、
東京の自分のそばに聖パウロ修道女会のスールたちを招きたい希望を打ち明けた。
メール・バンジャマンも、かねてから日本の首都に学校を開設し、
スールたちの愛の献身を実らせたいと望んでいたので、話は急速にまとまった。
司教は、神田猿楽町の教会敷地に修道院を建築し、スールたちを受け入れた。
東京での創業の重責を担ったのは、修道院長および学校担当者として、
サイゴンで寄宿舎の管理にあたっていたスール・カンディードゥ、そして函館から、すでに日本語を
わきまえるようになっていた2人のスール、スール・マリ・アスパズィーとスール・カロリーヌであった。

同年8月15日、聖母被昇天の大祝日にオズーフ司教は学校の創設を決定した。
校内の設備はまだ不十分であったが、和やかな家庭的雰囲気の中で、主としてフランス語や英語と技芸を
教えた。 このつつましい学校の発足が、白百合学園の第一歩であった。


また、聖パウロ修道女会がその創立者たちから受け継ぎ育ててきた遺産、すなわち病者と貧しく不運な子どもたちへの愛の奉仕も、小規模ながら学校経営と足並みそろえて始められた。

函館での活動で経験を積んだスール・マリ・アスパズィーが施療院を開いたが、西洋人という物珍しさも加わってか、日増しに患者が多くなった。
そして、スール・マリ・アスパズィーの親切な手当と片言で投げかけてくれる慰めのことばに、好奇心は深い敬愛の情へと変わっていった。

さらに、スールたちは小さな孤児院をも付設して
その経営にあたり、身寄りのない子どもたちの
母とも姉ともなって、昼夜養育に心を砕いた。
学校と同様、孤児院も超満員であった。

1884(明治17)年7月24日、
増築中の新校舎が完成し、
その祝別式と落成式が盛大に取り行われた。
校名を「女子仏学校」とし、当時珍しかった
校舎の建築様式と好奇的な雰囲気とから、
「赤レンガの学校」と人びとが名付けた愛称
そのままに、好意につつまれつつ内外ともに
充実させていった。
 メール・バンジャマン帰天

極東地区管区長
メール・バンジャマン

1884年5月、メール・バンジャマンは、
東京の建物が、将来の輝かしい発展を請願する
熱烈な祈りをこめて祝別される日に先立ち、
サイゴンの修道院で病を得て、
その充実した宣教活動を終え、
静かに帰天した。62歳であった。

日本の聖パウロ修道女会にとって
忘れることのできない大恩人、
日本における創立の母でもあった。 

教育事業の最初の試みとしてつつましく発足した女子仏学校が、喜ばしい成果をもたらしたので、
1887(明治20)年、政府の承認のもとに、寄宿舎付の学校を開設した。
教科内容も、フランス語で教える仏・英・独の外国語や、音楽・図画・刺繍・家事・裁縫などが加えられた。
当時の日本は、近代国家建設を目指してヨーロッパ文化の摂取におおわらわだったので、
学校はおどろくほどの隆盛をみせ、次第に名門の子女の入学も多くなってきて、
校内には暖かな家族的雰囲気と新しいものへの若々しい情熱とが調和しつつみなぎっていた。
この明るい発展性に応えて、土地と校舎の拡張が計画され、実行に移されることとなった。

1890(明治23)年、校名を従来の「女子仏学校」を「高等女子仏英学校」と改めた。
また、1898(明治31)年9月8日、文部大臣から正式に学校経営の認可が下付された際に、校名を「高等女子仏英和学校」と改めた。

1893(明治26)年、付属小学校が「神田女子尋常高等小学校」として認可された。
1904(明治37)年4月、新しい幼稚園が設置され、西園寺静、
中西トモ、久我姉妹、稲畑太郎らを始めとして、
多くの名門の子弟が最初の入園児として迎えられた。


白いタブリエを着た幼稚園児たち

さらに6月23日付の公文書をもって「社会法人日本聖保禄会
として正式認可を受け、社会事業・教育事業の分野に心安らけく
挺身し得る保証が与えられた。

1897(明治30)年ごろの
通学生・寄宿生・孤児たち


高等女子仏英和学校校門

1910(明治43)年3月、文部省から高等女学校として正式認可がおり、これを機会に
校名を「仏英和高等女学校」と改称し、教科内容も、現在までの外国語・技芸などを主としていたのを改め、
文部省令に基づく本格的な教育を施すようにした。
そしてカトリック精神に根ざした教育方針により高い品性と教養を培い育てる学校として、
輝かしい再発足をすることになった。
翌年8月には仏英和高等女学校第1回卒業生33名を社会へ送り出し、人びとの期待に応える成果を実証した。

また1912(明治45)年、新潟の孤児院が大火によって焼失したので、東京麻布に移転設立し、
よるべない子どもたちを暖かく保護する仕事を続けた。


神田の大火による全施設の消失と再建

1913(大正2)年2月8日、神田の大火によって聖パウロ修道女会の修道院・校舎および博愛医院・孤児院・寄宿舎などの全施設が、類焼の災禍に遭った。
翌年から本格的に校舎の再建築が始められ、
まず小学校校舎が着手された。
1915(大正4)年の1学期には木造の小学校が落成し、
2学期には女学校も竣工の喜びを得た。

ついでレンガ造りの修道院・修練院・寄宿舎・孤児院が完成し、
ここに全施設の復興が終わった。
「赤レンガ学校」という愛称にふさわしい、
エキゾチックで魅力的な建築であった。

赤レンガの校舎
新装なった学校には日増しに生徒も多くなり、女学生だけで100名を数え、
寄宿生も80名を越えるほどとなり、明るい未来が保証されるに至った。

1916(大正5)年9月には、
仏英和高等女学校の校章が決定され、
金地に銀で白百合をあしらった角形で、
聖パウロ修道女会を意味するSPが印されてあった。
生徒ははかまの紐か、あるいはバンドにこれをつけ、
仏英和に学ぶ誇のしるしとした。

1921(大正10)年11月16日付で、女学校は従来の修業年限4か年を5か年に延長され、
生徒定員も新たに500名として認可された。


関東大震災と九段への移転

1923(大正12)年9月1日、突如襲った関東大震災は再建後間もない全施設を再度潰滅させた。
神田の敷地は罹災後の区画整理を受けたので、九段坂上の南部邸跡の現校地を購入し、
鉄筋コンクリート3階建て新校舎建築に着手した。


九段に移転した当時の仏英和高等女学校校舎

仏英和高等女学校全景

1927(昭和2)年9月、新校舎が落成した。そして、幼稚園・小学校・高等女学校のほかに、
結婚した卒業生やそのほか希望する婦人たち126名をもって補習科・専修科のようなものが始められた。

麻布の孤児院には18人の子どもたちが集まって来て、
ささやかながら暖かい家庭的団らんの中に日々を送り迎えた。
博愛医院も従前通り開設され、スールたちは病家訪問にも出向いて愛の奉仕を続けた。

1930(昭和5)年1月2日、麻布に仮設してあった孤児院を神奈川県の子安に移した。
また、関東大震災以後函館に移転されていた修練院を管区本部の東京へ戻した。

1931(昭和6)年3月、かねてから計画していた寄宿舎の建築が始められ、
続いて32年から33年にかけて幼稚園・音楽室・作法室・図画室・習字室などの特別教室、
さらに待望の講堂の建築が着手され、修道院および全事業の充実が期待された。
1933(昭和8)年ついに一切の増築が成り、6月13日に講堂の落成式が盛大に挙行された。
こうしてルヴェヴィルの小さい種がこの地に小さい1粒を落としてより50年余、
火と天災の試練を経て、今ここに豊かに美しく生い立ったのであった。

校舎の建築が一段落ついたとき、今さらのように校歌のないことが物足りなく思われるようになった。
そこで、当時在学生の父兄であった姉崎正治博士作詞、同じく父兄の弘田竜太郎氏作曲の
「清くかんばし白百合の・・・」の校歌が生まれた。

それに伴って、今まで使用していた簡単な校旗も
本格的なものをとの希望が高まり、
古代紫地に金糸銀糸で白百合の花を
刺繍したものができあがって、
あらゆる面で組織の完成が進められていった。

1935(昭和10)年4月、永い間、親しまれ、広く知られてきた「仏英和高等女学校」の名を改めて、
白百合高等女学校」と称することとなった。
というのは、当校関係者の中に、誇らかな校風とその気品とをもっと適切に象徴した校名がほしい
という要望が大きかったのと、文部省から「仏英和」を「和仏英」になおすようにとの指令を受けたが、
語感からいってもあまり好ましくなかったので、
5年前に発足した同窓会名「白百合」をとってようやく改名の認可を得、「仏英和」に別れを告げたのであった。


太平洋戦争中

1941(昭和16)年12月8日未明、ついに太平洋戦争が始まった。
戦争のさなか、翌年3月には白百合高等女学校内に家政科の専攻科設置が認可された。

1944(昭和19)年になると、物資は欠乏し、空襲も本格的となり、
いよいよ学童疎開が強く叫ばれるようになった。また、神奈川県子安に経営していた孤児院は、
戦局の進展に伴って周囲に軍需工場が林立し、おのずと空爆圏内に位置するようになった。
そこで、建物一切を軍人援護会に譲渡し、子どもたちを他の施設に離散させた。
こうして、東京所属の事業からは、この種の施設が永久に姿を消したのであった。
この売却によって入手した資金は、直ちに当面の緊急問題の打開にふり向けられ、
強羅に物色中の疎開地購入に役立てられた。
そうした奔走の間に、状勢は日増しに悪化を極め、ついに疎開が断行されることとなった。
1944(昭和19)年4月、希望者はスールたちに引率されて片瀬・強羅・甲府へと集団疎開をし、
合宿生活を営むこととなった。

1945(昭和20)年、空襲は夜となく昼となく、ますます猛烈に繰り返された。
ついに東京最後の猛爆撃のあった5月25日、恐ろしい轟音とともに修道院・校舎は火に包まれ、
博愛医院の一画と物置1棟を残して全焼した。わずかに階下の体育館と家事室だけが難を免れた。
7月7日、学童疎開地の甲府が空襲され、英和女学校が全焼した。
幸いに、子どもたちは全員かすり傷ひとつ負わず甲府教会へ難を避け、徐々に父兄の手元に帰すことができた。


戦後の再建と発展

全世界の人びとが熱烈な嘆願を込めて祈り続けた終戦は、
ついに1945(昭和20)年8月15日、現実となって達せられた。
しかし、日本のシャルトル聖パウロ修道女会には、東京、仙台の爆撃による廃墟の再建、
その他年月を経た各支部施設の修復など、処理せねばならぬ目前の問題が殺到していた。
戦時中、身命を堵して管区長代理の重責をにないおおせたメール・ジョゼフィン・ドュ・サクレ・キュールは、
スール一同を鼓舞して立ち上がった。

新時代の動向に深い洞察と先見の明とを持っていたメール・ジョゼフィン・ドュ・サクレ・キュールの理想は
高かった。単なる復旧だけに満足せず、堅固な高度の教養を身につけた女性の養成を目指して
専門学校の設立に奔走した。
幸い、彼女の人格とその教育界における従来の貢献とが認められ、
1946(昭和21)年6月、白百合女子専門学校(国文科) が発足した。
開校式は暁星学園の講堂を借用してささやかにとり行われたが、これが白百合短期大学の前身であった。

1947(昭和22)、六・三・三制の学制改革に基づき、東京を初めとして全国の聖パウロ修道女会経営の学校は次つぎと新制中学校を設置していった。1年前につつましい発足をとげた白百合女子専門学校も、
国文科に加えて英文科の新設が許可され、時代の要求に拍車をかけて、着実な研修がなされるようになった。
その間、校舎の修復も完成に近づき、不可欠な聖堂とスールたちの居所の建築に関しても
現実的な計画が立てられるようになった。

1948(昭和23)年、日本におけるシャルトル聖パウロ修道女会は、新しい発展の時期に突入した。
2月、第4代管区長メール・アンナ・ドゥ・ジェズが来日した。スイス、ベルギー、イギリスの宣教生活を経て、
23年の長年月を常夏の国フィリピンのマニラで活躍してきた経験豊かなメールであった。
この実績のゆえにこそ、荒廃と飢餓と混乱の底にあえぐ日本へ派遣され、
管区再建の使命を課せられたのであった。
九段の仮修道院に落ち着いたメール・アンナ・ドゥ・ジェズは、管区顧問のスールらの助けを得て、
直ちに各支部の院長および各職場のスールの異動、修道院内外の組織の充実に着手した。

その間、全国の聖パウロ修道女会経営の学校は、徐々に新制高等学校設置の認可を得て、
それぞれに新面目を備えていった。
一方、学制改革による新発足を機に、同一精神によって教育される姉妹校としての意識と自覚を強めるために、
全国の管下学校は、すべて各地区名の下に白百合学園の称号を用いることとなった。


1949(昭和24)年3月、木造半地下室付2階建ての本館が落成した。
スールたちは、これで幾分か息をつくことができたが、生徒の増加による教室不足のため、
本館を折半して専門学校教室にあてた。この建築に際して、管区長はじめ関係者一同、
深刻な財政困難に苦しんだが、幸い学校債に生徒父兄の多大な応募と熱心な援助を得たので、
この危機を無事に乗り越えることができた。
また、幼・小・中・高・専の大世帯の学園にとって、既設の校舎のみでは何としても狭すぎる観が強かった。
そこで管区長は、隣接地購入に奔走し、学園拡張の第一歩を踏み出した。

1951(昭和26)年3月、学制改革によって短期大学設置の認可が与えられ、
専門学校で発足した国文・英文の専科は新しい分野へと一歩前進した。

メール・アンナ・ドゥ・ジェズは、スールたちを通して、あるいは自ら布教および教育事業の発展に貢献し、
施設の整備に活躍するかたわら、限りなく求められる働き手の養成にも心を配った。
来日後2年間に、20余名の志願者が着衣して修練女の生活にいそしみ、
一方陸続として入会希望者がつめかけて来た。外界からの刺激の少ない閑静な修練所で、
若い娘たちを聖パウロ修道女会修道女として心行くまで錬磨したい・・・管区長はつねづねこう考えていた。

こうして種々奔走が続けられ、7月、武蔵野のおもかげも豊かな
石神井関町に新修練所の建築が始められた。
翌年1月、赤瓦の屋根にうすばら色の壁を配した清楚な洋館が
落成し、同時に幼稚園の建築も終了した。
というのは、幼児の保育を通して神への知識と愛とを人びとに
教えようという聖パウロ修道女会の希望と、
土地の人たちの幼稚園設置の懇願とが、
好都合にも結ばれたからであった。
年が明けるとともに、修練所はこの新天地へ移転した。
そして、1952(昭和27)年3月、
関町白百合幼稚園が開設された。

関町最初の修練院

1958(昭和33)年には短大仏文科の設置が認可され、4月からそのスタートを切った。


  » 白百合学園    http://www.shirayuri.ed.jp/
  » 白百合女子大学 http://www.shirayuri.ac.jp/



 2人のスールの殉死


戦時中の1943(昭和18)年11月23日、聖パウロ修道女会のスール2名が
横浜教区長 井手口三代市師とともに、占領地の宣撫班として南方に派遣されることになった。
スール・マルガリタ(西田キチ)とスール・モニカ(荻島礼子)の2人で、
ホンコンで日本語を教えるためであった。
ホンコン入港直前、乗っていた船が機雷にふれて沈没、その際、他の乗客を助けるために、
井手口教区長とともに船に残って殉死するという
痛ましい出来事があった。

救助艇は少なく、人びとは先を競って乗ろうとした。
2人のスールは同行の井手口教区長とともに、
「人のためにおのが生命を捨てるほどの愛」を教える
カトリシズムを生き抜き、他の人びとの命を救うために、
みずからを犠牲として海底に消え去ったのであった。

その数か月後、1人の訪問客が修道院を訪れ、
マスール方の最後の様子を涙ながらに、次のように告げられた。


スール 西田キチ
 

スール 荻島礼子
軍艦に魚雷が当たって次第に傾いていった。皆われ先に救命ボートに乗った。
「どうぞ先生方もここへ。」といわれて乗り移ろうとしたとき、後ろの方で、
「私には場所がない。妻子はどうなる・・・」と泣き叫んだ人たちがいた。
先生方はその方たちに自分の席を譲って甲板に残られた。
神父様とマスール方2人は紐で身体を結び、祈りながら艦と共に姿を消された。
以上の報告の主が、とりもなおさず席を譲られた人の1人で、感謝の意を表すべく訪れたのであった。

スールたちは、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15・13)
との主キリストのみ言葉を身をもって証された。

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」
(ヨハネ12・24)のである。
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1. 発祥の地

ルヴェヴィル・ラ・シュナール
2. 創立者

ルイ・ショーヴェ神父
3. 修道会

1) 揺籃の家
2) 共同創立者
3) シャルトルへ
4) 海外宣教
5) 会の精神
6) 修道服の変遷
4. 日本における歩み

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 2) 日本での始動/函館
 3) 東 京
 4) 新 潟
 5) 仙 台
 6) 盛 岡
 7) 八 代
 8) 片 瀬
 9) 強 羅
10) 鶴見・山形・他
5. 写真で辿るルーツ

1) ボース地方
2) ルヴェヴィルの教会
3) 揺籃の家
4) シャルトル大聖堂
5) シャルトルの母院
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