日本における歩み

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 ■日本における歩み(5) - 仙 台

函館・東京・新潟で果たしている聖パウロ修道女会スールたちの教会発展への内助の功は、オズーフ司教に
大きな喜びを与えるとともに、宣教活動における修道女の重要な役割をますます確信させるに至った。
こうして1887(明治20)年、司教は東京の修道院長スール・マリ・オリエに一書を送り、
仙台へのスールの派遣を請うたのであった。この呼びかけは当座の思いつきではなく、聖パウロ修道女会の
スールを招いて、高等女学校と授産所・施療院、それに資金さえ工面できれば孤児院も開こう・・・
という計画が前々から練られていたのであった。
しかし、十分な貯えもないシャルトルの母院は、すぐこの求めに応じることができず、また、函館などの3修道院も、
このために資金をさく余裕がなかったので、新設の志はありながら、実現にはほど遠い状態であった。
とはいえ、オズーフ司教の要請は断り切れず、極東地区管区長メール・カンディードゥは
スール・マリ・オリエを伴って、実地調査のため仙台へおもむいた。
宣教師をはじめ、信者一同の真心と好意にみちた歓待に迎えられて感動したメール・カンディードゥは、
意を決して土地を買い創設の土台を固めた。
そして、主任司祭モーリ師が建築一切を引き受けて、準備にとりかかることとなった。

1892(明治25)年3月25日、聖母マリアのお告げの大祝日に、
院長スール・イザアク、スール・オウグスチヌ・ジョゼフと2人の日本人スールの4人が仙台入りをした。
一行を乗せた汽車が駅の構内に入った時、夜の8時だったにもかかわらず、
ベリオス司教と他の2人の宣教師につき従って多くの信徒が出迎えに来ていた。
この大歓迎にいたく感動したスールたちは、打ちそろってまっすぐ教会へおもむき、
聖体降福式にあずかって感謝の祈りを捧げ、それからモーリ師心尽しの修道院に落ちついた。


数々の試練を乗り越えて学校を開設

スールたちは、時を移さず言葉の習得にはげみ、かつてモーリ師が企画していた高等女学校の開設を
1日も早く実現しようと図った。モーリ師の尽力のおかげで、開校の暁には、
市の有力者や軍関係の高職者がその子女を入学させることを約していたほどであった。
ところが、不幸にしてモーリ師の後継者と市の主だった人たちとの折り合いが悪く、
そのため学校の開設は挫折した。スールたちは、まる1年間、教育事業にあてるべき時と能力とを傾けて、
病家を訪問し、施療院で働いた。しかも、試練はそれだけでは終わらなかった。
新主任司祭に反感を持った信徒たちが宣教師を追放しようと騒ぎ立て、
ベリオス司教のとりなしにもかかわらず、神の代理者に対して恭順を誓おうとしなかった。
司祭は去り、スールたちは、6週間にわたって週2回しかミサ聖祭にあずかれなかった。
そして、クリスマスの2日前、信徒代表者の謝罪によって事件はようやく落着した。

一方、学校開設の認可を待ちつつ始められた病者への奉仕にも、狭い心の人びとによる妨害が加えられた。
体の病を世話するかたわら、その魂の固疾を癒やすのが聖パウロ修道女会スールの真の目的であって、
打算的な商魂は露ほども持ち合わせていなかった。しかし、治療を受けた人びとの口から口へと伝えられる
施療院の好評は、医師たちの不安をかりたてずにはおかなかった。
かれらは、警察を通して、看護係のスールに医師免許状の提出を強要し、あるいは薬局を点検するなど、
あの手この手とスールたちの愛徳を阻止しようとした。
そこで、スールたちは、宣教師や親切な助言者の意見に従って日本人の医師を雇い、
ようやく騒ぎを静めることができた。そして何ごともなかったかのように、
徒歩で遠い村々まで病人を見舞い、尊くもきびしい使徒職を生き抜いていった。

苦しみは愛の天使といわれる。
仙台の聖パウロ修道女会には、新潟にも劣らぬ辛酸の数々が時を移さず襲いかかって来た。
当時の日本の法令では、会は、「外国人居留地」として規定された区域外に土地を所有することが
許されなかったので、仙台の修道院と学校の地所・建物は、4名の日本人の所有名義となっていた。
ところが、前述のような事情のために、文部省から開校の認可が得られず、その見通しも定かでなかったので、
土地の名義所有者たちは人間的弱さに負け、ひそかに地所・建物を売り、その利益をむさぼろうと企てた。
さいわい、責任者の1人が横領罪に組することを潔しとせず、事件は遂行直前に発覚したが、
スールたちは危うく体一つで巷にほうり出されるところであった。

こうした種々の事件の後、1893(明治26)年4月1日、文部省から学校設立を許可され、
ようやく「私立仙台女学校」の発足をみたのであった。院長スール・イザアクが校主兼校長の地位に立ち、
この日を鶴首して待ちあぐんでいた子女たちに外国語や近代的な技芸を習得させ、
学年末には3日間にわたる生徒製作品展示会を行った。その初日には6000余の観覧者が来校し、
その優秀な技術によって丹念に仕上げられた労作に讃嘆の声を惜しまなかった。

1896(明治29)年、スール・イザアクは、働き手の不足を告げる中国へ赴任することとなり、
スール・オウグスチヌ・ジョゼフが修道院長兼第二代校主としてその後を承けついだ。
校長職には学徳ともにすぐれた邦人の男子教職者が立ち、事業は静かにしかし着実に続けられた。

なお、このころ来仙し、明治・大正・昭和の3時代を通して、固い信念のもとに教育者として使命を貫きつつ、宗教と
学校教育との合一化を目指して尽力した日本人スール
スール・アグネス(鞍貫千代)の働きは、
仙台白百合学園にとって忘れ得ぬものであった。
創設後まだ時を経ぬ学校にゆるがぬ基礎を築きあげ、
歴代の修道院長と校長の中に立って、その運営と発展に
力を傾け、修道的なきびしい日々を生き抜いたその一生は、実に聖パウロ修道女会スールの尊くも美しい誇りでも
あった。

1907(明治40)年3月8日、文部省から高等女学校の
認可を受け、校名も「私立仙台高等女学校」と改め、
一同は新発足の喜びを分かち合った。
1919(大正8)年、校名は「仙台高等女学校」と改称され、
戦後の学制改革に伴う聖パウロ修道女会経営の校名統一の日まで、長くこの名で仙台の人びとに愛され親しまれた。
その間、スールたちは一致協力してひたすらその初志を
貫き通した。

他方、病人への奉仕も続けられ、かつて、ルヴェヴィルの
寒村でつつましく愛徳の花びらをまきながら、
貧しく苦しみ病む人びとや無知な子どもたちに肉体的・精神的救いの手を差しのべた創立者たちの精神および
日常生活さながらに、ささやかな修道的共同生活の日々が平和の中に積み重ねられていった。


創立当時建てられた本館(修道院)


仙台高等女学校と改称した当時の学校


太平洋戦争中と戦後の復興

昭和に入ってからも、梅の花の校章を胸にさした仙台高等女学校の生徒たちは、校主やスールたちの
変わらぬ温情に包まれて学窓を巣立ち行き、堅実な社会人として多方面に活動をくりひろげていった。
太平洋戦争で国内の非常時態勢が緊迫すると共に、生徒は動員され、
フランス人であった修道院長は院内に軟禁され、来る日も来る日も、官憲の監視とはんさな尋問に悩まされた。
年とともに空爆も度数と猛烈さを加え、仙台市内のあちこちが戦禍にいためつけられるようになり、
ついに1945(昭和20)年7月9日深夜、聖パウロ修道女会の施設は空襲の犠牲となり、
修道院・学校・施療院その他の一切の建築が全焼した。
スールたちは、人命に何の損傷もなかったことを神に感謝しつつ、東六番町小学校や聖ウルスラ童貞会修道院の
一部に間借りの生活を続け、まもなく終戦の日を迎えたのであった。

戦後、間借りして授業を続けるかたわら、好意的なPTA、同窓会の後援に励まされて、
終始一貫学校再建の旗印をかかげて努力を重ねていった。
そして、1947(昭和22)年4月、旧敷地に第一期復旧工事を完了し、
長年の居候生活に終止符を打つことができた。この復興にあたって、ビソンネット師がよせた積極約な献身は、
仙台の聖パウロ修道女会修道院およびスールたちに忘れ得ぬ思い出を残したのであった。

1949(昭和24)年4月、第3期工事を完了し、全生徒を収容しうる設備を整えるに至った。
とはいっても、第1、第2期の建物は本建築とはいいがたい急造の校舎であった。1950年には、
旧宮城県立第一高等女学校の敷地を県から購入し、校地の拡張を実現して近い将来の需要に備えた。
しかし、仮修道院はまことに赤貧そのものであった。
ユーモアたっぷりの当時の院長スール・マリ・ノエミは、よく新米のスールにこう呼びかけるのが常であった。
「Ma petite(マ・プティットゥ)、私の家はちり取りなんていりませんよ・・・」と。
古い日本家屋で、床板にすき間が多いので、ごみは掃き寄せるうちに姿を消してしまうからであった。

1955(昭和30)年4月には、幼稚園が開設された。
質素なバラック教室で10年来不自由な日々を過ごしてきたが、1957(昭和32)年3月4日、前年に着手した
新築工事が完了し、盛大な落成式が行われた。鉄筋コンクリート3階建てのモデル建築校舎であった。


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1. 発祥の地

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2. 創立者

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3. 修道会

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2) 共同創立者
3) シャルトルへ
4) 海外宣教
5) 会の精神
6) 修道服の変遷
4. 日本における歩み

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 2) 日本での始動/函館
 3) 東 京
 4) 新 潟
 5) 仙 台
 6) 盛 岡
 7) 八 代
 8) 片 瀬
 9) 強 羅
10) 鶴見・山形・他
5. 写真で辿るルーツ

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2) ルヴェヴィルの教会
3) 揺籃の家
4) シャルトル大聖堂
5) シャルトルの母院
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