日本における歩み

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 ■日本における歩み(6) - 盛 岡

北日本教区の総括的司牧に従事する多忙な憂慮にみちた宣教生活のかたわら、オズーフ司教は、
シャルトルの聖パウロ修道女会母院にむけて、1888(明治21)年9月、盛岡へのスール来援の熱請を送り、
その実現に尽力してやまなかった。
この頼みに接した母院では、新布教地日本での目覚ましい会の発展を喜び、その希望に応じる意志はあったが、資力の不足と派遣すべき人選の困難などの理由から、しばし快諾をためらっていた。その間、極東地区管区長
メール・カンディードゥは、現地調査を行い、その報告などを送って、母院の承諾をうながしてやまなかった。
こうして1890(明治23)年の春、スールを送ることが決定された。

しかし、その実現は2年の後、1892(明治25)年3月17日、スール・オノリヌ・ジョゼフと
スール・マリ・アズバズィーが函館から赴任して、ようやく目的が達せられたのであった。
間もなく、サイゴンから2人のベトナム人スールが吹雪のふきすさむ中を辛酸に満ちた旅を終えて到着し、
創業の労苦を分つこととなった。


赤貧の住居からのスタート

一同はジャッケ師が用意しておいた小さい日本家屋に住みついた。
その家といっても、わらぶき屋根に障子をたてつけた壁なしで、土間にござを敷いた、赤貧の住居であった。
貧しさになれていたスールたちは、スール・オノリヌ・ジョゼフを先頭に狭い家中を修道院らしく整え、
スール・マリ・アスパズィーは病人への愛徳を始めた。
函館・東京・新潟で経験を積み、宣教女の生活をこよなく愛していたスール・マリ・アスパズィーの働きは
見事なもので、すぐ患者がつどい寄って来た。

この当初の一挿話として伝え聞くところによると、
ある夜、終日の労働に疲れて4人とも熟睡していた間に突風が吹いて、わらぶき屋根を引きさらって行った。
ふと目をさました一スールは、何か大広間に寝かされているような錯覚を起こした。
いつも、目に映る狭い天井うらの横木はなく、漆黒のバックに美しくきらめく無数の光が点在しているのだった。
夢うつつの中に3人のスールを呼びおこしてみると、4人は天然の星空の下に寝ていた。
またあるときなどは、めんどりの鳴き声にふるさとの夢を破られ、床からでてみると、
ふとんの上に産みたてのあたたかい卵がぽつんと乗っていることもあったという。
こうしたボースのルヴェヴィルの穴倉にも等しい家で、スールたちは事業の土台を固めていった。


女学校の創設

スール・マリ・アスパズィーの親切な看護を喜んで、患者が
日増しに多くなり、建物の拡張が必要となった。
そこで、かねてから計画の中に含められていた学校も、
同時に建てられることになった。
盛岡市内には、早くからプロテスタント経営の高等女学校が
そのすぐれた教育事業の成果を収めていたので、
カトリック側としても、この種の学校の早急の開設を切望して
いたのであった。幸い、準備は順調に運び、
翌年6月1日盛大な落成式を挙行することができた。
この開校式の日、政府代表の来賓を得、その司会のもとに、
いともはなやかな式典がくり広げられた。
これによって盛岡における聖パウロ修道女会の学校創立は
正式認可を与えられ、しかも公布されたのであった。
スールたちは、政府の示した無条件の信頼に応えるべく、
私立盛岡女学校」と称し、予科・本科の2科をおいて、
修業年限をそれぞれ2か年とする教科課程を置き、
新面目を整えた。そして、とくに国語教育においては
格別の配慮と努力が傾けられた。

スールたちの活動は日を追って広く認やられ、
1896(明治29)年、プロテスタント系の学校がその事業を
廃止して以来、ますます入学志望者が多くなった。
スールたちは教科のほかに、子どもたちに実生活を通して
カトリシズムの涵養を図り、本来の目的へ一歩一歩
近づいていった。
また、医師や弁護士や商人の妻たちが希望して、
フランス料理を習いにくるようになり、
毎週通ううちに、スールたちの無言の教えに照らされて、
おのずと宗教的な関心が高まっていった。
さらに、同窓会の動きも活発となり、知識階級の家に嫁いだ
卒業生たちの中には、家庭の母としての諸徳や美点、
愛徳事業における婦人の活動などについてスールたちと
会談したり、進んでそうした内容をあつかった書物を研究
したりして、積極的な活動をする者も現われた。

また、学校と並んで寄宿舎も開かれた。この宿舎は、
県庁が新築されて古い建物が払い下げになった時、
ジャッケ師が大金七百円を投じてスールたちのために
買い取ってくれたものであった。
この記念すべき古色豊かな建物は、場所を移動して
寄宿舎にあてられた。
2階の窓辺からは朝な夕な秀峰岩手山を仰ぐことができた。

1893(明治26)年に建てられた校舎


1896(明治29)年頃


1899(明治32)年



学校発展にも劣らず、「お医者の童貞様」と呼び慕われたスール・マリ・アスパズィーの献身的活動も、
実り多いものであった。求められるままにどんなに遠方へも足を運び、できるだけの治療を施し、
慰めとはげましの言葉を残さずには立ち去らなかった。
そして、病者の死の危険が近いと知るや、永生への教えを説いて、魂を救いあげることを怠らなかった。
スール・マリ・アスパズィーの没我的な愛徳は、僧職にあった2人の改心者を出したほどであった。

1902(明治35)年2月、原因不明の失火によって校舎の一半と校具、諸設備、付属建物などが焼失した。
この試練の中にも、市民の同情と献身的な援助に強められて復興を急ぎ、廃嘘の再建を待ちながら、
授業はつつがなく続けられた。年とともに学校も昔日の姿にもどり、つどい寄る生徒の数も増加の一途をたどった。

1911(明治44)年1月、校名を「私立東北女学校」と改称し、
同年4月には高等女学校令に基づいて、「私立東北高等女学校」となり、
本科・実科の2科を置き、修業年限を前者4か年、後者2か年として新しい発足をとげた。

1920(大正9)年4月には、校名から私立の2字を削除すると同時に実科を廃し、
東北高等女学校」として、戦後の改名の日まで、この名で愛され親しまれてきた。

1939(昭和14)年4月、仙台教区長レミュー司教の懇望によって「なでしこ幼稚園」が開設され、
清純な心に神への愛を種まく仕事が始められた。


太平洋戦争中と戦後

太平洋戦争に突入してからは、校長職は邦人のスールを、との要請に応え、
学徒動員・食糧増産など多難な時期を切り抜けていった。
1942(昭和17)年6月1日、戦争のさなかに創立50周年記念式典を挙行し、
往時の辛酸をしのんで、神に感謝を捧げたのであった。

戦局が切迫するに従って、盛岡の平和境には、都会から疎開する人びとが集まって来た。
聖パウロ修道女会でも、東京在住の外国人スールをこの地へ送って万全を期した。
スールたちは日本人を除いて集団軟禁を命ぜられ、一同ドミニカン・ロザリオ修道院に連れ去られた。
幸いフランス人であったため、終戦と同時に帰院を許され、事なきを得た。

盛岡では、瞠目に値するような飛躍は見られなかったが、戦禍の影一つとどめず、
永い伝統を誇る姿そのままに平和の日を迎え得たことは、何よりも喜ばしいことであった。
1956(昭和31)年4月、前年の夏から校舎の新築にとりかかり、
小学校を設置する準備が進められ、30名の小学生を迎えて開校が実現した。


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4. 日本における歩み

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