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 ■日本における歩み(9) - 強 羅

疎開学園としてスタート

太平洋戦争の戦況がじりじりと窮境に追いつめられ、
本土爆撃も猛烈さを加えて学童集団疎開が強調されてきたころ、
東京および片瀬の疎開地として箱根強羅が選定され、
種々奔走が続けられた。
幸い広い地所付の日本家屋が手に入り、
1944(昭和19)年4月、ここに疎開学園が発足した。
東京在住の外国人スールも、疎開希望の生徒たちとともに、
この景勝の地強羅へと避難した。

四方の森かげからは、うぐいすの美しい歌声がしじまを破って
流れ合い、めぐり重なる緑の山ひだからは白雲がたちのぼる
強羅の地は、今でこそ繁華な観光地として整備されているが、
当時は「お山のおうち」の風雅な名をよそに、
物資に乏しい未開の土地であった。

スールたちは、子どもたちを朝な夕な慰め励まして
勉学への意欲をかきたてた。

だが、校舎らしい設備とてなく、別荘の2階や
借り受けた住居の二、三を急造教室にあてて、
スールも生徒も膝をつき合わせて教え学んだのであった。

夏が去り、秋も深まってあたりの山々が燃えるような紅葉に
染まるころから、山地の寒冷はとみに加わって、
焼けつくような都心の炎暑をこの夏ばかりは味わわなかった
生徒もスールたちも、骨を刺し貫く厳寒には
筆舌に尽くしがたい辛酸をなめたのであった。

長い辛苦の末、山間の地にも遅い春が訪れた。
うぐいすのなき声もひとしお楽しげに聞こえ、山々の若葉が
和やかな日射しに映えてくると、ともに力づけ、いたわりあって
しのいできた冬の日の思い出を、スールたちも子どもたちも、
一生忘れることのできない懐しいものとして顧みるようになった。
こうして貧しい生活のあけくれの中に、
終戦の報に接したのであった。

疎開学園 (個人の別荘であった)


疎開学園時代(校門近くで)


1953(昭和28)年頃の木造校舎


戦後、湘南白百合学園分教場として再出発

強羅の疎開学園は、全国の学校疎開廃止とともに、1946(昭和21)年3月をもって廃校となった。
生徒はそれぞれ家庭に戻り、東京・片瀬の学校へ復帰したが、罹災した父兄や子どもたちの中には、
この地から帰って行く住居のない者が多かった。
困惑した父兄は、当局に実状を陳述し、学校存続の認可を懇請した。
こうして、強羅の施設は、新たに湘南白百合学園分教場として再出発することとなり、
幼稚園・小学校・中学校を併設した。

また、強羅では、聖パウロ修道女会の伝統的な事業の一つである養護施設を始め、
愛情的にも経済的にも恵まれぬ子どもたちを引き取って、日夜その世話にあたった。

1949(昭和24)年4月、地元民の希望もあって、
函嶺白百合学園」と名乗って独立の歩みを続けることとなった。
また、養護施設もあらゆる困難を排して持続されていった。

1955(昭和30)年、校舎の不足を打開するため、山の傾斜を利用して木造新建築を急いでいたが、
ようやく12月9日に、学園をあげて完成の喜びを祝った。
そして、都心に見られぬ静けさの中に、小規模ながら幼・小・中・高の一貫したカトリック的教育が行われていった。


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