太平洋戦争の戦況がじりじりと窮境に追いつめられ、
本土爆撃も猛烈さを加えて学童集団疎開が強調されてきたころ、
東京および片瀬の疎開地として箱根強羅が選定され、
種々奔走が続けられた。
幸い広い地所付の日本家屋が手に入り、
1944(昭和19)年4月、ここに疎開学園が発足した。
東京在住の外国人スールも、疎開希望の生徒たちとともに、
この景勝の地強羅へと避難した。
四方の森かげからは、うぐいすの美しい歌声がしじまを破って
流れ合い、めぐり重なる緑の山ひだからは白雲がたちのぼる
強羅の地は、今でこそ繁華な観光地として整備されているが、
当時は「お山のおうち」の風雅な名をよそに、
物資に乏しい未開の土地であった。
スールたちは、子どもたちを朝な夕な慰め励まして
勉学への意欲をかきたてた。
だが、校舎らしい設備とてなく、別荘の2階や
借り受けた住居の二、三を急造教室にあてて、
スールも生徒も膝をつき合わせて教え学んだのであった。
夏が去り、秋も深まってあたりの山々が燃えるような紅葉に
染まるころから、山地の寒冷はとみに加わって、
焼けつくような都心の炎暑をこの夏ばかりは味わわなかった
生徒もスールたちも、骨を刺し貫く厳寒には
筆舌に尽くしがたい辛酸をなめたのであった。
長い辛苦の末、山間の地にも遅い春が訪れた。
うぐいすのなき声もひとしお楽しげに聞こえ、山々の若葉が
和やかな日射しに映えてくると、ともに力づけ、いたわりあって
しのいできた冬の日の思い出を、スールたちも子どもたちも、
一生忘れることのできない懐しいものとして顧みるようになった。
こうして貧しい生活のあけくれの中に、
終戦の報に接したのであった。 |

疎開学園 (個人の別荘であった)

疎開学園時代(校門近くで)

1953(昭和28)年頃の木造校舎
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