日本における歩み
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1858年(安政5年)10月9日、駐支フランス公使グロー氏がフランスを代表して日本を訪れ、 ここに通商条約の調印成り、函館・横浜・長崎の3港がフランス商船に開かれた。 またこの条約をもって、外国人はその居留する地において自分らの宗教を信奉する権利が与えられた。 こうして函館は、いち早く海外の文明文化と相接する港町として名実ともに先進地の様相を整えていった。 これより先、日本の国情の好転を琉球で待機していたパリ外国宣教会は、 その活発な布教活動に拍車をかけ、入国の時に備えていた。 翌1859(安政6)年、日本カトリック教会再建に寄せていた長年の熱願かなって、宣教師たちは陸続として、 江戸へ、長崎へと上陸した。そして開港地函館にも、幸便のロシア軍艦に乗って、 同年11月、すでに白雪につつまれた港町へとその第一歩を印したのであった。 居住に往来に、宣教師たちに与えられた自由には幾分の制限があったが、 勇躍邁進、着々と教会の基礎が固められていった。 パリ外国宣教会士の来函後間もなく、用地の提供を受けて、ささやかながら司祭館の一室に教会が発足した。 その年(1859年)のクリスマスには深夜のミサが捧げられた。 時はいまだキリシタン禁令の制札もいかめしいころだったので、 日本人に積極的な働きかけをすることは慎まねばならなかった。
「切支丹邪宗門御法度」と仰々しくかかげられた高札もやがて撤去され、 復活を急ぐ日本カトリックの教会は目ざましい進展をみせた。 1876(明治9年)、ローマ聖座は、日本教区を南北に二分し、北日本代牧区(東京)、 南日本代牧区(大阪)となし、前者をオズーフ司教、後者をプチジャン司教に、それぞれ委任した。 恵まれた好機を生かして、宣教師たちは心を合わせて本格的な布教活動に挺身し、
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