日本の近代文学、ことに国木田独歩や樋口一葉など明治期の文学を中心に学んでいます。
「美術」と文学、「恋歌」の近代、「一人称」表現といったテーマにも取り組んでいます。
「明治」文学のメッセージ
「明治」文学と聞いて、具体的にどのような作家や作品が思い浮かぶでしょうか?
比較的有名なのは、小説では森鴎外「舞姫」、樋口一葉「たけくらべ」、夏目漱石「吾輩は猫である」など、詩歌では島崎藤村「若菜集」、与謝野晶子「みだれ髪」、石川啄木「一握の砂」あたりでしょうか。明治はなまじ現代に近いだけに、かえって古めかしいというイメージがあるように思います。
ところで、「源氏物語」のような古典と近代小説とを比べると、同じ日本文学でも大きく違っています。まず、使われている言葉や文章が明らかに違います。また、作品を支える世界観や人生観のようなものも違います。さらに、作品を書くことに対する意識、いわば〈文学観〉的な部分も違っているように思われます。このような変化は、もちろん古代からの日本文学史の流れの中で捉えなければなりませんが、西洋文明を受容することで、文学作品の文体や、文学に対する人々の意識、考え方が大きく変化し、近代文学が出発したのが明治期です。従って、この時期の問題を考えることは、近代文学の出発点を確認することであり、また、われわれがともすれば〈常識〉だと思い込んでいるような近代的な観念の歴史性を明らかにすることでもあります。
例えば、夏目漱石に「こころ」という小説があります。明治の終焉が時代背景となっている作品ですが、その中に、「先生」という人物の発言として次のような一節があります。
自由と独立と己れとに充ちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう(上「先生と私」十四)
前後の文脈の説明は省きますが、ここには「自由と独立と己れ」の「犠牲」として「淋しみ」が必然的に生じるという認識が示されています。「自由と独立と己れ」と「淋しみ」とは、なぜ結びつくのでしょうか?
われわれが「自由」という言葉を悪いイメージで捉えることはめったにないと思われますが、そういう場合の「自由」という言葉(概念)はlibertyやfreedomの翻訳として、明治から使い始められたものです。同様に「独立」はindependenceの翻訳語(西洋の概念を表した言葉)ですし、この場合の「己れ」はindividual(個人)の意を含んでいると考えられます。
漱石は明治が始まる前年(1867年)に生まれ、明治とともに育ち、生きてきた人ですが、彼にはこれらの言葉(概念)の由来や〈新しさ〉が分かっており、そうした近代的な概念の光と陰とがよく見えていたと思われます。一方、われわれはもう、そうした言葉の歴史性を忘れており、問題の在りかも見えにくくなっているのではないでしょうか。
明治期に立ち返ったとき、上に掲げた「こころ」の一節から、近代日本に対する鋭い批判を含んだメッセージが読みとれると思います。
これは一つの例にすぎません。一口に「明治」文学といっても、実に様々な作品があります。それらを研究することで、逆にわれわれ自身がよく見えてくるということがあるように思われます。一見〈古めかしい〉と思えるようなところに、実は今でも生きている〈新しい〉問題の本質がひそんでいるのです。
「小波日記研究会」
本学児童文化研究センターの協力を得て、巖谷小波(いわや・さざなみ)の日記を翻刻・研究する会を開いています。小波は硯友社の主要メンバーの一人で、日本の児童文学の基礎をつくった人として知られています。その日記は文壇の動向のみならず、当時の文化や社会の様子がうかがえる貴重な資料です。