日本近現代文学、特に詩について研究しています。
立原道造という詩人の作品に関心があります。「或る晴れた日に」という詩から引用してみましょう。
私は黒い旗のやうに
過ぎて去る 古いおもひに ふるへながら
光や 風や 水たちが 陽気にきらめきさわぐのを
とほく ながめてゐる……別れに先立つて (第2連)
2行目まで読んでいくと、「私」が昔のことを思い出して震えながら、黒い旗のやうに過ぎて去ると意味がとれます。旗が強い風に波打つように「私」は無力に吹き流されて行く、そんなイメージです。ところが最後まで読み進めれば、「古いおもひに ふるへながら」は4行目の「ながめてゐる」に掛かっていくように感じられてきます。つまりこの一節は、「私」は「黒い旗のやうに 過ぎて去る 古いおもひに ふるへながら」、「光や 風や 水たちが 陽気にきらめきさわぐのを」「とほく ながめてゐる」という意味だったわけです。読者の脳内には、「私」が「黒い旗のやうに」「過ぎて去る」映像が浮かぶや、次の瞬間「過ぎて去る」動作は残像となって霧散し、「私」は未だそこにたたずんで風景を眺めている様子が浮かんできます。この一連の表現では、「過ぎて去る」が述語動詞でありながら修飾語句としても機能することで、映像におけるオーバーラップに似た効果が生じていると言えるでしょう。
通常、言葉は情報伝達が第一義で、そのために内容を分かりやすく効率よく表現することが求められます。しかし文学作品では言葉の振る舞い自体に重点が置かれる場合が非常に多いのです。現代文学のシーンではさらにラディカルな表現が生み出され続けています。文学作品が放つ言葉のパフォーマンスの魅力はつきません。